[#表紙(表紙.jpg)] 柳 美里 フルハウス 目 次  フルハウス  もやし [#改ページ]    フルハウス  扉《とびら》は嘆《なげ》くような音をたてて開いた。 「さあ、入って」秘密めいた父の微笑が家の闇に浮かびあがった。  父の背後の靴箱の上に、およそ八十センチもある一対の木彫のアイヌ人形、その横に鮭をくわえた熊が見える。靴箱と壁のすきまには真新しい竹刀が立てかけてある。  私と妹は玄関に足を踏み入れた。落成してから一度も雨戸を開けていないのか、塗料のにおいがたちこめていて、息が詰《つ》まりそうだ。臭気はあっという間に口のなかに侵入し、歯と舌にべっとりとへばりついてしまった。私は激しくせき込み、妹はポケットから探り出したハンカチで鼻を蔽《おお》った。  父はなぜ玄関に私たちを待たせておいて勝手口から入ったのだろう、新築したばかりの家の主として家族を迎え入れたかったからだろうか。二十数年前、横浜の西区に引っ越した直後、母にそそのかされて買ったこの百坪の土地に、「家を建てる」というのが父の口ぐせだった。私と妹は母が家族を棄《す》てて家を出た十六年前からその計画を聞かせられつづけた。そして父が鉛筆で描いた稚拙《ちせつ》な設計図は去年の春ごろから現実味を帯《お》び、それでも建つことはあるまいと高をくくっていた私たちを尻目《しりめ》に、つい一ヵ月ほど前に完成したのだ。水っぽい憐《あわ》れむような感情がふいに沸《わ》き立ち、地鎮祭《じちんさい》でたったひとり首をたれている父の姿が浮かんだ。  扉を閉めると、なにも見えない。暗さのせいというより、目を刺す塗料《とりよう》のせいだ。妹は鼻腔《びこう》をふさいでいたハンカチで目を拭《ふ》いた。私は腰が抜けたように玄関の敷物に座り、靴のかかとをおや指とひとさし指でつかんだ。靴を脱いで立ちあがろうとしたとき、妹と私は頭をたがいの頭にしたたかに打ちつけた。廊下のなかほどにいた父はなかなか入ってこない私たちに痺《しび》れを切らして、黒地に赤|薔薇《ばら》が浮きあがったスリッパ二組を敷物の上に並べた。 「電気つけて」私は気管支《きかんし》を詰まらせている塗料のにおいに堪《た》えられず、またせき込んだ。  父は私の言葉にはたかれたように顔を背《そむ》けた。 「ガスは?」妹が目をこすりながらつっけんどんに訊《き》いた。 「今日はむりだな。明日、電話してガス屋と電気屋を呼ぶよ」父の眼球がぐったりと生気を失った。ここに向かう車のなかで父は電気もガスも通っていると嘘《うそ》をついていた。  妹は昨晩数ヵ月ぶりに電話をかけてきた。明朝、区役所に転入届けを出しに行かなければならないと父から連絡があったという。私たちは家が建ちはじめた今年の二月から一度も父と逢っていない。「行く必要ないよ。それに明日は事務所に行くことになってるから」というと、「あたしだっていそがしいよ」妹は声をとがらせた。なぜ転入届けを出すために私たちがつきあわなければいけないのかと妹を詰問《きつもん》しながらも、私は行くしかないと観念していたのだが、それでも妹とだらだら会話をつづけた。問題はいっしょに棲《す》むつもりはないということをどうやって父に納得《なつとく》させるかだ。  大倉山にある港北区役所で待ち合わせたのは午後一時だった。転入の手つづきをする父につきあったあと、「横浜駅まで送って行く」というので父の運転する車に乗り込み、半《なか》ば予想していたとはいうものの、だまされて、この家に連れてこられたのだった。 「ごはん、どうしよう」といいながら妹は前髪をひっぱって額《ひたい》にたらした。 「寿司だな」父は階段の上の方に顔をあげた。 「お風呂もだめ、か」乾ききったせきがのどに貼《は》りついている。私は父の顔の輪郭を目でなぞった。 「暑いねぇ。水風呂が気持ちいいよ」といって私のため息をはらいのけると、父は廊下の右手にある扉を押してなかに入り、ステップを踏《ふ》むように歩き出して雨戸を開けた。「ここが応接間とダイニングキッチン。きみたちの友だちがきてもだいじょうぶなように大きなテーブルを買った」  鏡の反射《はんしや》に似た七月の陽光《ようこう》が居間を照らし出した。応接間《おうせつま》とダイニングを合わせて二十畳はある。暗い色の木の床、ピンクとブルーのカーテンの柄《がら》は母の好みだ。  妹は三十四インチのテレビに立てかけてあるギターケースにびくりと目をやった。 「羊子《ようこ》、こないだギター習いたいっていってただろ。ここで練習すればいい」笑いをふくんだ父の声が、鼓膜《こまく》周辺で耳障《みみざわ》りな跳躍《ちようやく》をしている。 「ふたりでちょっと台所に立ってみろ、使いやすいかどうか」  私は椅子に深く座って足をはさみのように閉じたり開いたりしている妹に目配《めくば》せして、腰をあげさせた。  台所の床には新聞紙に包まれている皿や茶碗《ちやわん》や丼《どんぶり》や湯呑《ゆのみ》やグラス、俎《まないた》や鍋釜《なべかま》やタッパーやステンレスのボウル。醤油《しようゆ》やソースや味醂《みりん》や酢《す》などの調味料が置かれていて足の踏み場もない。製氷機《せいひようき》つきの大型冷蔵庫、電子レンジ、米櫃《こめびつ》、コーヒーメーカー、かき氷機、ジューサー、電気|炊飯器《すいはんき》はふたつもあり、すべて新品だ。 「食器なんかうちに腐《くさ》るほどあったじゃない。新しく買う必要なかったのに、こんなにたくさん」 「客がきたらこれでも足りないくらいだ。それにうちから古い物を持ってきたらきみたちは寄りつかないだろう」後ろ向きに座った父の声は聞き取れないほど弱々しかった。  父は粗大ゴミ収集所にある電化製品を拾ったり、近所の家の庭にある盆栽を盗んだりするくせがあったので、六畳二間と四畳半だけの西区の家は他人が使い古した物であふれていた。父より十歳若い母はそれにがまんならなかった。いさかいは絶えず、夫婦|喧嘩《げんか》がない日はいつはじまるのかとかえって不安だった。別居の直接的原因はほかにある。父は支店を十数|店舗《てんぽ》持つパチンコ屋の支配人で、当時でさえ八十万の給料をもらっていたが、月に数万しか生活費を渡さなかったのだ。競馬や競輪で使い果たしてのことだったのか、それとも父の経済|観念《かんねん》がそうさせたのかは、今になってもわからない。おそらく極貧《ごくひん》だった自分の子ども時代の苦難《くなん》を私たちに体験させたかったのだろう。 「西区の家にあるものは箸《はし》一本持ち込むつもりはない。きてごらん」といいながら廊下に出た父はトイレの扉を開けた。トイレは二畳ほどの広さで便座の暖まるウォシュレットだった。不動産屋まがいの無表情をよそおって私と妹の表情をうかがっていた父は、脱衣所の扉を開けた。  脱衣所のシャワードレッサーとキャビネットはオフホワイトで統一されている。全自動洗濯機はどうやって運び入れたのか見当もつかないほど大きなものだった。擦《すり》硝子《ガラス》の扉を開けると、水が張ってある薄グリーンの湯船には小さいクリーム色の蛾《が》が浮き、風呂場《ふろば》のタイルは施工《せこう》した職人《しよくにん》のものだろう、手や指のあとで汚れていた。 「外出先からでも電話で風呂を沸《わ》かせられる最新式のだ」父はさり気なく蛾を手ですくったが、棄《す》て場に困ってそのまま握《にぎ》りつぶした。  妹が口を固く結んでいるので、私は感嘆の響きが父に伝わるよううわずった声で、「すごいね」と壁面《へきめん》にとりつけられているボタンを押してみた。 「早く死んで保険がおりなきゃ借金は返せない」 「いくらかかったの」 「五千万」  私たちが驚きの声をあげる前に父は早口でしゃべりはじめた。 「きみたちに迷惑《めいわく》はかけない。ちょっと高い墓をつくるつもりで建てたんだ。素美《もとみ》も羊子《ようこ》もどんないそがしい仕事をしているか知らないが、一年に一度ぐらいしか帰らないじゃないか。電話一本よこさない。わたしが家で冷たくなってたってきみたちにはわからないよ」  言葉の勢いに反して、父の目のあたりにはなにかを待ちつづけているときの茫漠《ぼうばく》とした表情がただよっている。 「わたしが死んだあとに売ろうがどうしようがきみたちの勝手だがね」 「あたしは棲《す》まないよ」妹は父の話を遮断《しやだん》し、「お姉ちゃん棲むの?」と不信感のこもった目で私をじっと見た。 「ときどき」 「布団はどっさり買ったから、二十人まで泊まれる。パーティーができるぞ」  父の声は薄闇《うすやみ》のなかに溶《と》けていった。段ボールと紙袋が積み重なっている廊下を通り抜けた父が、玄関のすぐわきにある部屋の扉を開けるのを、私と妹はただ呆然《ぼうぜん》と眺めていた。  十畳の和室には二組の布団が敷《し》いてある。早朝に布団を敷きにきたか、昨晩ひとりでここに泊まったか、どちらかだろう。  父について玄関の横の階段をあがると、右横の三畳ほどのスペースにがっしりとしたつくりのサイドボードがあり、小さなテーブルと二脚の椅子が置いてあった。サイドボードのなかにはさまざまな種類の酒が並んでいる。鵞鳥《がちよう》や馬や帆船《はんせん》の形の白い陶器《とうき》に入った酒、越乃寒梅《こしのかんばい》などの日本酒、ヘネシー、ナポレオン、バランタイン、レガシー、レミーマルタン。  私は拾い集めた物で埋め尽くされた西区の家を思い浮かべた。そのくせ、帽子、背広、時計、靴などはすべて一流品で身を固め、吝嗇《りんしよく》と浪費《ろうひ》のあいだを行ったり来たりする父のことをむかしから不思議に思っていた。父は私の顔を見てにやにや笑い、「ここで夜景を見ながらいっぱいやるといい」といって雨戸を開けた。家の前の空地は栗畑《くりばたけ》になっている。その向こうには八階建のマンションがあり、〈入居者募集中〉の赤い垂れ幕《まく》がはためいている。  階段の右手にはみっつの部屋が並んでいる。  父が、十畳は妹の部屋、六畳は書斎、そして奥の角部屋は私の部屋だといったとき、いきなり部屋に突き飛ばされて閉じ籠められるのではないかという気がして入口の壁をしっかりつかんだ。汗が鎖骨《さこつ》からブラジャーのひもにしたたり落ちた。  床に置かれた小型テレビ、会社重役が腰かけるような回転式の革張《かわば》りの椅子《いす》、六段もあるつくりつけ本棚にはテレビのリモコンと説明書が乗せてあるだけで一冊の本もない。 「りっぱな家には書斎《しよさい》がなければいけない」と父は胸を張った。  本棚にもたれかかっているゴルフバッグはずっしりと重い。父はゴルフなどやったことがない。私にやれというのだろうか、笑いを押し殺すためにあわてて唇を噛んだ。  奥のふすまを開けると、いぐさの香りがする畳《たたみ》と目を射る真っ白な障子《しようじ》の和室があった。 「素美《もとみ》は畳が落ち着くっていってただろ」父は雨戸を開け、ふうっと大きく息を吐いて背筋を伸ばした。白いレースのカーテンが風をはらんで舞いあがり父の顔をつつむようにおりてきた。  父は二階のすべての雨戸を開けて室内に光を招《まね》いたが、日光は決して家の奥までは届かなかった。家の隅《すみ》には黒い闇が鍋底《なべぞこ》の焦げのようにへばりついている。決して棲《す》むことのない自分の部屋を持てあまして、私と妹はげんなりとした顔を取りつくろうことさえしなかった。ベランダに立って外に視線を彷徨《さまよ》わせていた父は、「車に積んである荷物をおろすから手伝ってくれ」と階段をおりていった。  外に出ると、妹は郵便ポストのプレートを見ろ、と顎《あご》をしゃくった。〈林《はやし》 正兒《まさる》 洌子《きよこ》 素美《もとみ》 羊子《ようこ》〉母の名前まで入っている。父はこの家を建てたことで母といっしょに暮らせるとでも思っているのだろうか。鈍《にぶ》いオレンジ色の斜陽《しやよう》に照らし出された家は沈没《ちんぼつ》しかかった軍艦《ぐんかん》に似ていた。なにかを攻《せ》めようとして、あるいは守ろうとして果たせなかったことへの非難にじっと堪えているかのようだ。想像を超えるほどりっぱだったこの二階家は、父の背後でじわじわと縮《ちぢ》みはじめたように見える。  家の横には雨除《あめよ》けアーチがついた自家用の車庫があり、家の前には四台分の駐車スペースが白線で区切られていた。なんのためにと訊《たず》ねると、一台月三、四万で駐車させるのだと父は答えた。この近所で車庫を持っていない家があるとは思えない。私と妹は顔を見合わせた。  父が車の助手席からとり出してみせてくれた新聞広告によれば、〈港北《こうほく》ニュータウン〉と呼ばれているこの一帯《いつたい》は、住宅・都市整備公団が主導《しゆどう》して開発を目論《もくろ》んでいる、総面積二五三〇ヘクタール、計画人口三十万人にも及ぶ一大プロジェクトだ。横浜の副都心というのが謳《うた》い文句だが、バブル崩壊前に構想された計画がうまくいくとは思えない。私は机上のマスタープランが破綻《はたん》してゴーストタウンになりかねないという気がしてしょうがない。  私と妹は父が車のトランクから取り出す紙袋を家のなかに運び入れた。  父が頼んだ特上の寿司《すし》を黙々《もくもく》と頬《ほお》ばっているうちに、家のなかはみるみる暗くなっていった。父は寿司をつまむ私と妹の手の動きを黙って見ている。私がかけている度の強い眼鏡も父の表情を読み取る助けにはならない。新居をひと通り案内して、私たちが棲《す》みたいといい出さないことが腑《ふ》に落ちないのだろう。高い坪単価の家を建て、家具をそろえた父にしてみれば、抱きついて感謝の言葉でのどをつまらせない私と妹が理解できないにちがいない。それどころか私たちはまずそうに寿司をつつきまわしているのだ。バタンと椅子の音をたてて父は廊下に出てとなりの和室に入った。  懐中電灯の光が私と妹を交互《こうご》に照らし出した。 「きゃあ、やめて」妹の嬌声《きようせい》が光とからみ合ったが、部屋を明るくするほどの効果はない。 「テレビの上に置けばちょうどお寿司にあたるよ」私の声も子どもっぽかった。  懐中電灯の光をはさんで父と向かい合うことに堪《た》えられず、視線の端《はし》で妹をとらえて二、三回まばたきをした。シグナルを受け取った妹は、「お姉ちゃん、シャワー浴びて、寝よ」とあくびをしながら立ちあがった。  水を浴びた私たちは布団が敷いてある一階の和室で、父が用意していた花柄のパジャマに着替えて、布団のなかにもぐり込んだ。妹は喃語《なんご》めいた言葉をつぶやきながら寝返りを打ち、やがて静かになった。ためしに「いつ帰る」と声をかけてみたが、返事はない。  スリッパの音が止まった。寝床に入らずに家のなかを徘徊《はいかい》していた父が、気配を消した。なにをしているのだろう。  急に布団からはみ出た自分の手足が真新しい畳のなかに溶けてゆくような恐怖にとらえられ、手足が布団から出ないよううつぶせになって布団の端を握りしめた。背筋がうずく。はずむ息を小刻《こきざ》みに吐き出しながらあおむけになった。眠りのなかに逃げこめるよう呼吸のリズムを緩《ゆる》やかにしてゆく。目を瞑《つむ》る。  息づかいを感じて薄目をあけると、父が私の足もとに立っていた。微動《びどう》だにせず私を見おろしている。しばらくそうしていたが、ふいに枕元にまわりこみ私の両わきをかかえてぐいとひっぱりあげ、私の頭を持ちあげて枕にのせた。  そうしてからもじっと見詰《みつ》めている気配が、目を瞑《つむ》り息を殺している私を押しつぶしてゆく。あやうく叫び出しそうになったとき、畳をこする音がして部屋から出て行った。妹の唇《くちびる》から洩《も》れる小犬のような熱くくさい息が頬にあたる。そのにおいを吸い込むとゆるゆるとこわばりがほどけていった。玄関の扉が閉まる音。車のエンジンがふるえる音。父はどこへ行くのだろうという考えが頭のなかで澱《よど》んだ瞬間、自分の肉体が感じられなくなった。  白。障子。朝、半醒半睡《はんせいはんすい》の状態が、私を眠りに堕《お》ちるまえに引き摺《ず》り戻した。私は熟睡《じゆくすい》している妹の半ば開いた唇を一瞥《いちべつ》し、セットしておいた目覚し時計のスイッチを切った。立ち去ってゆく車のエンジンの音がもう一度聞こえたような気がして、あたりを見まわしながら起きあがった。  応接間に入ると父は庭の真ん中に立っていた。長い間空を見あげて立っている父の姿は一本の枯木《かれき》のように見える。 「ここに大きな樹《き》を植えたかったんだが、植木屋に訊《き》いたら、家を先に建ててしまったからだめだといわれたよ。クレーンで樹を吊《つ》って屋根の上から庭におろすしかないんだそうだ。家を建てる前に植えておけばよかった」 「山茶花《さざんか》とか紅葉《もみじ》とか、小さいのをたくさん植えれば」 「こちゃこちゃしたのはいやだね。それより石を置こうと思うんだ」 「だって、ペペ、連れてくるんでしょ」  西区の家にはポインター種の牡《おす》犬がいる。 「石はだめ、走りまわれないじゃない」 「畑をつくるか、トマトやナスを植えて。羊子を起こせ」父は目をしばたたいて太陽を見た。  コンビニエンスストアで買ってきたのだろう、おにぎりとパンが数種類テーブルの上にぶちまけたように転がっていた。  私たちがおにぎりを食べはじめたとき、父はだしぬけに「店に行ってくる」と立ちあがった。 「じゃあ、あたし帰る、仕事なの。駅まで送って」妹はおにぎりとパンをポケットに入れて、椅子の背もたれにかけてあるスエードのリュックを肩にかけた。 「素美はいるんだろうな」  私を見すえた父の目は、帰るとは到底《とうてい》いえないほど険《けわ》しかった。 「でもコンビニで買うものがあるからいっしょに行く。駅前にあったよね」 「ここのゴミ処理場。となりが冬は余熱《よねつ》を利用して温水になるプールだ。今日、素美も泳ぎにきたらいい」 「水着、持ってきてるわけないでしょ」 「家にそろえてある。お母さんのも、羊子、おまえのもだ」  父のうっすらとした笑みがバックミラーに浮かび、助手席の妹はふりかえって眉をひそめてみせたが、私は窓の外に視線を逸《そ》らした。白い看板の〈ふれあいの丘〉という文字が横切る。父は禁煙パイポをくわえてスピードをあげずに注意深く街を通り抜けてゆく。車は少なく、歩道にはひとっ子ひとりいない。父はラジオのスイッチを入れ、アクセルを踏《ふ》んで赤信号を無視した。道の両わきには造成《ぞうせい》中の空地が延々《えんえん》と広がっている。それらは新しい家が建つのを待っている敷地《しきち》というより、だいぶ前に建物が取り壊されて空地になってしまったような寂寞《せきばく》感を醸《かも》し出している。  駅の周辺は、ショベルカーがひっきりなしに土を掘りかえしている立入禁止の空地に囲まれている。〈センター南駅〉はすぐ目の前にあるのだが、空地を突っ切れないために大きく迂回《うかい》しなければならない。駅前には赤いポストと〈LAWSON〉があるだけでなにもない。私と妹は〈センター南駅前広場完成予想図〉の前でおろしてもらった。この完成予想図によれば、樹木と芝生が敷地の半分を占めるバスターミナルと、タクシー乗場の下に地下二階まである広大な駐車場ができるらしい。パネルの下の文字を読んでいる私に、「行くよ」妹は素《そ》っ気《け》なくいい、地方都市の多目的ホールに似たしゃれた外観を持つ駅構内に歩《ほ》を進めた。 〈LAWSON〉に入ってレポート用紙とサインペン、ラムネ入りのアイスキャンディーを買い、外に出た。  タクシー乗場には一台も停《と》まっていない。バスの時刻表を見る。家に帰るには〈御影橋《みかげばし》〉が近いと父に聞いていた。一時間に一本しかない。十時から五時まで計七本の時刻が記《しる》され、その上と下の欄《らん》は空白になっている。なぜ通勤時間に走っていないのか。工事現場の鉄板に貼りつけられたパネル〈平成6年11月6日 都筑区誕生〉の前を、黒い鳥影のようにランドセルを背負った少年が自転車で通り過ぎた。バス停を離れて、溶けはじめたアイスキャンディーをかじりながら家のある方向に歩き出した。  どこまでもつづく黄色と黒の〈安全第一〉の鉄柵《てつさく》。クレーン車やショベルカーは土ぼこりをあげ、作業員たちは腕組みをして地面に開けた穴をのぞきこんでいる。電信柱にくくりつけてある〈墓地売出中〉の幟旗《のぼりばた》。その赤い矢印がさしている方に目をやると、背高泡立草《せいだかあわだちそう》やネコジャラシなどの雑草《ざつそう》がはびこっている空地のすみで、寺院の骨格が組み立てられている。交差点で信号を待っているとタンクローリーやトラックが何台も駅に向かっていった。僧侶《そうりよ》、商人、役人、サラリーマン、都市を形成するありとあらゆるひとたちのこの土地を埋め尽くすために行進してくる姿が、陽射《ひざ》しを強く照りかえしている四車線の街道に、陽炎《かげろう》のようにゆらめいて消えた。  だれかに肩をつかまれ、私は、ひゃあと叫《さけ》び声をあげてつんのめりそうになりながらふりかえった。背は低いが肉づきのいいパーカーを着た男が紙袋をかかえて立っていた。 「クリーニング屋を知りませんか」 「さぁ知りませんけど」と歩き出そうとすると、「ネクタイ、それに靴も」パーカーの男が口をうごめかした。 「ネクタイがなくなってしまって、クリーニング屋に忘れてきたんだと思うけど、その店が見当たらないんですよ。それに靴もなくなった、盗まれたのかなぁ」  私は男の口を見すえた。両脚の筋肉は動きだそうとしてびくびく痙攣《けいれん》しているのに目を離すことができない。 「ネクタイと靴、靴は一万五千円もしたんだけど」  パーカーの男はゆっくりと歩き出した。二、三歩進んだところで腰を折り、道に落ちている煙草の吸殻《すいがら》を指でつまんだ。私は一定の距離を保ちながら男のあとを歩いた。男は鉄柵《てつさく》をまたいで空地に入りこみ、背高泡立草が密集している方に吸殻を放り投げた。そして紙袋からフランスパンを取り出し、千切ってばらまいた。鳥は一羽もこない。  父に渡された鍵を勝手口の扉に差し込んだ。靴を脱いだ途端、家中の湿《しめ》り気を帯びた生ぬるい空気がからだにまとわりついてきた。アイスキャンディーでべたべたした手を洗って、水滴をTシャツで拭《ふ》きとり、ダイニングテーブルに腰をおろして、しばらく新聞紙にくるまった食器を眺めていた。床はほこりだらけなのに窓だけは買ったばかりの眼鏡《めがね》のように透《す》き通っている。そのせいか常に視線に近いものを感じる。この家のなかに誰かがいる、得体《えたい》の知れないなにかが漂っているという想いをふっきることができない。  私は意を決して二階にあがった。踊り場の窓から身を乗り出してひと気のない通りを見おろした。展示場のモデルハウスそっくりの家々。ベランダの物干しには軒並《のきな》み乾きかねた洗濯物がだらりと吊り下がり、その家に棲《す》むひとの上半身や下半身のかたちを想像させる。右腕に目を落とすと、鳥肌《とりはだ》がたっている。肺が苦しくなるほど深く息を吸い込んで吐き出したあと、階段の電気のスイッチを押し、ガスと電気が通っていないことを思い出した。  電話で事情を話すと、拍子《ひようし》抜けするほどあっさりガス屋も電気屋も昼までにはきてくれるという。  電気がつき、蛇口から湯が、ガスコンロから炎が出ることを確認してしまうと、眠くなった。ジーンズを穿《は》いたまま敷きっぱなしの布団の上に横になってとろとろと微睡《まどろ》んだ。  障子が夕陽に染まっているのに驚いて目を醒《さ》ました。ひとりで転がるように家中走りまわって電気をつけ、台所のガスコンロに火を噴《ふ》き出させて湯を沸《わ》かした。  風呂の掃除《そうじ》をすることを思い立って、洗剤がないかと廊下に積み重なっている紙袋のなかを調べてみた。  洗濯物干3。トイレ掃除のスポンジ2。ボディー用の柄付ブラシ2、たわし2、スポンジ1。フランス製ハーブ入ボディーソープ5、シャンプー5、リンス5。大きさ、かたち、色が異《こと》なるビニール製ポーチ12。親子丼《おやこどんぶり》専用の〈おやこ鍋〉1。梅酒の壜《びん》2。〈愛〉の一字が印刻された木のしゃもじ1、普通のしゃもじ3。〈沖縄《おきなわ》の塩〉2。サランラップ8。電気ポット1。〈バブ〉15。植木鉢《うえきばち》用のプラスチック皿大5、小7。  目的を持たず手当たりしだいに買ったとしか思えない。下の方の紙袋をひっぱり出すと荷物の山が崩れてしまうので、洗剤はあきらめた。袋から取り出した生活用品が漂流物《ひようりゆうぶつ》のように廊下《ろうか》に並んでいる。コンビニエンスストアでつまずいて床に散乱させた商品をかき集めたことを思い出しながらそれらの物を台所のすみに積み重ねた。  事務所に電話を入れた。  二ヵ月前に川島が雇《やと》い入れたばかりの事務員が甘ったるい声で応じた。名前が思い出せない。川島は留守で連絡|事項《じこう》はべつにないという。  川島は人形劇団の制作部員だった。私の劇団の公演にスタッフとして手伝いにきて知り合ったのだが、ちょうど女優に見切りをつけて仕事を捜《さが》そうと思っていたころ、彼から電話がかかってきて学校公演のブッキングの会社をつくるということを打ち明けられたのだった。誘われるままにパートナーとして〈東京芸術センター〉の設立に加わった。中学、高校の年に一度の芸術|鑑賞《かんしよう》会に、音楽、演劇、英語などをパッケージして提供《ていきよう》する仕事だ。関東一円の中・高校の鑑賞会の担当者に催《もよお》しを売りこみ、出し物が円滑《えんかつ》に行われるよう責任を持たなければならない。去年、ある名の知れた劇団と契約してからようやく軌道《きどう》に乗せることができた。しかし事務員をふくめてわずか三人の事務所でも維持《いじ》することは難《むずか》しく、川島は芝居やコンサートの舞台監督のアルバイトで稼《かせ》いでいる。ブッキングは春秋のシーズンが勝負だ。夏のあいだの私の仕事は電話で担当教師のご機嫌取りに励《はげ》み、向こうが望めば食事をしたり、観劇のおともをしたりするだけだ。  事務員にこの家の番号を教えて電話を切った。そして私は必要な物をメモしたレポート用紙をポケットに収《おさ》めて外に出た。  大通りには激安ショップが並んでいる。〈靴のテイクワン〉〈東京靴流通センター〉〈電気のロケット〉。風で飛ばされたのか、歩道の植え込みに不動産屋の立看板《たてかんばん》が引っかかっている。陸橋《りつきよう》のたもとにある階段をおり、木々のすきまから夕陽が沈むのを眺めながら遊歩道を歩いた。だんだんと近づいてくる朱色と白の横|縞《じま》のゴミ処理場の煙突からは煙が出ていない。左手には十二階建のマンション、右手に見えるプリン型の建物の前に何台も車が停まっている。おそらくあれが父が話していたプールだろう。私は蝉《せみ》の声がまったく聞こえないということにはじめて気づいた。七月だというのにどうしたことだろう。公園と空地だらけなのにもかかわらず、蜻蛉《とんぼ》も蝶も蝗《ばつた》もその姿を現さない。 〈Discount Center OK〉の入口には鉄のゲートがあって、怜悧《れいり》そうな目に笑みをみなぎらせた男が客に透明なビニール袋を手渡し、私物をそのなかに入れるよう注意している。袋に入りきれない荷物はコインロッカーに入れなければいけない規則だという。万引防止のためだ。  十九歳のとき、私は妹と万引をして家裁に行く騒《さわ》ぎになったことがあった。  そのころ無名の舞台女優だった私は同じ劇団のふたまわり年上の俳優と同棲《どうせい》していた。タレントを目指して高校を一年で中退した妹は飛び込みでプロダクションの事務所に行き、月五万円という最低の保証だったが所属することに成功した。母から生活費を援助《えんじよ》してもらい、新宿で家賃三万のアパートに棲んでいた妹は週二、三度は仕事のあと私のマンションによって、風呂に入り食事をして帰った。そして月一度の割合で新宿や渋谷で待ち合わせしては、万引した。  その日は西区にある父の家に泊まった帰りだった。  横浜駅近くのデパートに入り、洋服を見て歩いた。妹の視線が一枚十万近くする洋服の表面を撫《な》でてゆく。妹は白いワンピースに手を伸ばし、「これいいね」と目をうるませた。私は妹に向かって短くうなずいた。 「白はいっぱい持ってるから黒がいいんじゃない? 試着してみれば」というとふいに地面がこころもとなげにゆれはじめ、そのゆれは爪先からすねに、すねから腰にと広がった。妹と店員が背を向けると、私はあたりに視線を投げ、白いワンピースを素早《すばや》くハンガーから外して丸め、あらかじめチャックをあけておいたバッグに押し込んだ。黒いワンピースを身につけて試着室から出てきた妹は、どお、と私の目をのぞきこんだ。 「四時か」私はそこに時計があるかのようにレジの上の壁を見やり、「急がないと間に合わないよ」とわざとらしい低い声で呟いた。 「明日買いにくるからとっておいてくれます?」妹は店員を見てにっこり笑ってから試着室に入って着替えた。  私たちはそうやって店をはしごしてつぎつぎと服や靴や下着を盗み、最後の店で色とりどりの靴下をたがいのポケットに突っ込んで出口に向かった。外に出た瞬間、「お客さま」背後から肩をたたかれた。ふり向きもせず駆《か》け出そうとすると「どろぼう!」と叫んで私の髪をにぎりしめ、妹が女の背中に飛び蹴《げ》りを食らわせた。どうやら女は客をよそおった警備員らしく倒れながらも私の手からバッグを奪い取った。逃げおおせたあと、バッグに財布と妹の定期券が入っていることに気づいて交番に出頭した。未成年だったため、警察官は父に電話した。  一階で風呂掃除の道具と卵とハムと葱《ねぎ》を買い、天井に貼られた鏡のなかの自分を見守りながらエスカレーターに乗った。  二階でおりた私はハンバーガーやソフトクリームを販売しているカウンターに近づき、立ったままハンバーガーを食べ、買物をするひとたちを見物した。妊婦《にんぷ》に手を引かれた五、六歳の女の子が私をじっと見ている。私は女の子から目を逸らさず、ハンバーガーを咀嚼《そしやく》する自分の歯の音に耳を澄《す》ました。このケチャップと挽肉《ひきにく》の味はいつまでも口に残りそうだ。妊婦は女の子の手をぐいと引いてエスカレーターのほうへ歩き出した。妊婦は女の子の耳もとになにかささやいたが、女の子は首をよじって私に小さな目玉を残したままエスカレーターの下に消えていった。  ゴミ処理場の煙突を目印にすれば迷わないだろうと、来た道を戻るのはやめ当てずっぽうに帰ることにした。  空き地の雑草のなかに赤い色が見える。近寄ると、屍体《したい》のように横たわった自転車だった。ビニール袋を地面に置いて自転車を起こしてみると、新品とはいえないまでもきちんと動く。拾うことにした。もし誰かにとがめられたら交番に届けに行くところだといえばいいと思案《しあん》して、ビニール袋をハンドルにかけて空地からひっぱり出した。通りに出て自転車に乗ろうと試みたが、ビニール袋のせいでバランスがとれないのでひいて帰ることにした。前方からランニングウエアーを着た白髪の男性が走ってくる。  私はジョギングの男とすれちがうとなにか良くないことが起きるという勝手なげんをかついでいる。あわてて植込みの切れ目から煉瓦《れんが》色の舗道《ほどう》に出た。  舗道をまっすぐ行くと、つきあたりにネットに囲われたグラウンドがあった。右腕の皮膚に食い込むビニール袋を左手に持ち直し、金網越しにグラウンドを眺めながら自転車をひいていった。 〈シャフルボードコートのご案内 細長い棒《キュー》で円盤《ディスク》を押し出し、得点を競うシャフルボード。高齢者から子どもまでいっしょに楽しめるスポーツです)  何度読みかえしてもシャフルボードのイメージが浮かばない。耳もとで、はぁはぁという息が聞こえたが、私はパネルから視線を動かさなかった。 「うまいコーヒーの店を知ってますよ」  堪え切れなくなって自転車をターンして見ると、思った通り先刻《せんこく》のジョギングの男だった。その初老の男は白い歯をむき出して私の顔をのぞきこんでいる。男の左手が動き、股間《こかん》をまさぐった。逃げようとして一歩踏み出したとき、男の右手が私の肩をつかみ、目の前に赤いラベルのマッチ箱を突き出した。 「一度、行くといい」  男は走りだした。  サラダ油が見当たらないので胡麻油《ごまあぶら》で刻んだ葱《ねぎ》とハムを炒《いた》めていると、勝手口の扉に鍵が差し込まれ、父が入ってきた。父は両腕にぶらさげたビニール袋を床に置き、鼻をひくつかせながら私の手から菜箸《さいばし》を奪ってフライパンのなかをかき混ぜはじめた。白飯を炊飯器《すいはんき》からフライパンに移して胡麻と塩をふりかけ、しゃもじで白飯を切るようにして、「卵だ、卵」とを声をはずませた。フライパンのなかの葱とハムを見ただけでチャーハンをつくろうとしていることを当てたのだ。「卵は、最初に炒めとかなくちゃいけない。葱は飯を炒めてからだ」と火を止め皿にチャーハンを盛りつけると、父はYシャツのボタンをふたつはずしてのどもとの汗をハンカチでぬぐった。  チャーハンを食べ終えた父は禁煙パイポをくわえて私の表情をうかがっている。 「素美もおとなになったからいうんだが」  まるで塀の上を爪先立ちで歩くような話の切り出しかただ。私はひきずりあげられないように両手で椅子の背もたれをつかんだ。私はこれまでただの一度も父とふたりで話したことはない。私だけではなく父もまた巧妙《こうみよう》に避けてきたのだ。それが家を建てたことでたががゆるみ、父親らしくふるまおうとしている。 「あの女が、お母さんが家を出たのはわたしのせいだと思ってるだろうね。だけどすくなくともわたしは暴力をふるったことはない」禁煙パイポを口から飛ばして、父は立ちあがった。食器棚のひきだしを開け、一カートンのパーラメントを取り出した。 「わたしはきみたちを虐待《ぎやくたい》したことはない。暴力をふるったのはあの女の母親にだけ、それも二回だけだ」父は胸を張って煙草に火をつけ、「一回はわたしが殴ったら前歯が折れた。差し歯に四十万もかかったよ。安い歯は入れさせなかったんだ」と声をたてないで笑った。  視線を感じて眼鏡をかけてから窓の外を見ると、隣の庭に老婆が立っていた。こちらを見ているのではない、地平線でも見ているかのように通りをうかがっている。 「それも殴ったのは、煮立《にた》った味噌汁《みそしる》をひっくりかえして、きみにもうすこしで大やけどを負《お》わすところだったからだ。残念だが、ほかに方法がなかった。チャーハンを食べながら話を聞きなさい」  私はチャーハンを口に運びながら記憶をたどり、母が殴られた数をかぞえた。スプーン一杯が、一回。 「きみに性的虐待もしていない。おぼえがあるか」  三杯目でスプーンを置き、記憶に蓋《ふた》をして静かに首をふった。 「わたしもおぼえがない」  父にはユーモアの感覚があるのだろうか、この唐突《とうとつ》さはたしかに笑える。私はもう一度、となりの庭に目をやった。老婆は先刻と同じ姿勢で通りを見ている。 「性的虐待というなら、わたしのほうが被害者だといってもいい。あの女がキャバレーで働きだしたのは、きみが小学──」 「二年生」 「わたしは反対したよ。だれが賛成する、自分の妻がホステスになることを。でもだ、信じて、わたしの目を見てください、というから許したんだ」 「信じたの」 「あの女の目は澄んでいた。そのときは、だ。水商売にひきずりこんだのは、先にキャバレーで働いていたあの女の妹、彼女にそそのかされたんだ。あいつの家族はろくなものじゃない、妹といいあいつの母親といい。ある日、あいつは六月だというのにとっくりのセーターを着ていた。着替えるときによぉく見たら首に赤いあざがついている。わかるだろう、そのことのもたらす意味は」  私は父の顔をまっすぐに見ていった。 「キスマーク」 「それでもわたしはね問いつめたりはしなかったよ。ぐっとがまんした。許せなかったのは、きみが、夜、店に電話かけてきたろう、羊子が熱出したって。わたしはどうしても抜けられなかったから、あいつのところに電話したんだ。そしたら、今日は休んでますといわれたよ」父は愚鈍《ぐどん》な牛のようにしっとりとうるんだ目を私に向け、「それから臆面《おくめん》もなく何人もの男とできて、そしてあの男──」と手をぱちんとたたき、「出逢《であ》ったというわけだ。あの色男、高校時代の同級生に」と話を結んだ。  父は永年《ながねん》執着《しゆうちやく》しつづけた自分の疵《きず》が自慢なのだ。怒りと痛みがきれいに洗われたその疵のなかに深々と沈《しず》みこんでいる。「いまでもだ、きみのお母さんとお祖母《ばあ》さんは、店に金をせびりにくるよ」 「え?」 「だいたい十万、多いときには二十万」 「どうして」 「林の血が流れる子どもを産んでくれたという事実は変わらない。その女を産んだのがあの婆《ばあ》さんだ。見合い写真のなかからわたしを選んだのもね」  氷が砕《くだ》ける音がした。父と私はびくっと台所を見た。冷蔵庫の製氷機《せいひようき》だ。台所は陽を拒《こば》んで深い陰につつまれている。 「ポストにお母さんの名前があるよね」できるだけ優しく微笑《ほほえ》んだ。 「きみたちがそうしたいだろうと思って。実はこの家を建てようと決心したとき、逢《あ》ったんだ。もう一度、いっしょに暮らしてみないかと相談するために」 「それで?」 「最初はまんざらでもなさそうだった。だが話を進めていくうちに、一階を店舗《てんぽ》にしろ、それがむりならせめて四階建にしてそのうちの十部屋を賃貸《ちんたい》にしろ、家族はそれぞれ一部屋ずつべつべつに棲もうといいだすしまつだ。わたしはもう一度家族いっしょに暮らそうと思っているのか、ほんとうにわたしとやりなおそうという気持ちがあるのかと訊《き》いた。するとあの女は、そんな気あるわけないじゃないと鼻でせせら笑ったんだ。じゃあどうしていっしょに棲むんだとわたしは訊いたよ」 「お金でしょ、困ってるみたいだから」  私は台所に行き、ゴミ箱に食べ残しを棄てて皿を流しに置き、水道の蛇口《じやぐち》をひねった。激しい水の勢いで顔にしぶきが飛び散った。水を止めてテーブルに戻った。  私は話の接穂《つぎほ》に焦って、「勝手口のじゃなくて玄関の鍵もらえるかな。わざわざ裏にまわるの面倒くさいから」とひきつった笑みをこしらえた。  こころなしか家中に雨がふる前に似た涼しさがたちこめたように感じられた。 「玄関の鍵はない」父はいたずらっぽい笑みで唇をゆがめて、「工事が終わったときに支払うと約束したんだが、まだ払ってないんだ。だから土地はわたしのものでも、家はまだわたしのものじゃないみたいだね。ほんとうは電気やガスを通すのもだめだし、棲むのもだめなんだ。なんとかごまかして勝手口の鍵はもらったが、土建屋《どけんや》のヤツ、玄関のはどういっても渡してくれない」と他人事のように説明した。 「きみたちに迷惑はかけないさ。いざとなれば借金は生命保険でチャラにするから」と軽やかな調子でいい、「ちょっと、電話かけてみろ」その調子を崩さずにあごを突き出した。 「どこに?」 「どこにって、きみのお母さんのところに」父は椅子のひじかけに右手を置いてコツコツとテーブルを指でたたいた。  私は仕方なく受話器を握り、母が留守であることを祈りながらプッシュボタンを押した。十回コールしても出ないので受話器を置いた。 「羊子にはここにくる前に電話したが、出なかった。どこをほっつきまわってるのかね。留守番電話に、今日にでも帰ってくるようにと吹き込んでおいてくれ」父の声から明るさが徐々に消えていった。 「ジャガイモ、薩摩芋《さつまいも》はふかせばすぐに食べられるし、人参とセロリはサラダにすればいい。あとは、刺身、肉、韮《にら》、腐るからすぐ冷蔵庫に入れておいたほうがいい」父は玄関に置いてあるビニール袋を私の前に置いた。 「えっ、西区に泊まるの?」 「ペペの散歩とえさをやらないといけないし、かたづけるものが山ほどあるんだ」  父は和室に行き、紙袋を持ってきた。紙袋をひっくりかえすと、緑、黄色の水泳帽、赤とスカイブルーの水着、紺の競泳用水着、濃紺の海パンが床に散らばった。水着が泳ぎ出すのを待つとでもいうように父と私はしばらくのあいだ、フローリングの床を見おろしていた。父は顔をあげ、まぶしそうに目をしばたたかせて部屋を出て行った。そして勝手口で靴を履き終えると私を呼んだ。  小さな紙袋から取り出したのは、マッチ棒《ぼう》のようなでっぱりが何本も突き出た松ぼっくり大の木製の器具だった。父は手で握りしめるだけで指圧の効果があると説明した。 「ピリッとする、刺激するといいよ」  裏の庭で犬の鳴き声がする。やがてそれは危険を知らせる甲高い声に変わり、鎖《くさり》がなにかにぶちあたる音がする。なんでもないわよ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と主婦らしい女がなだめているのだがなかなか鳴きやまない。シッ、シー、ハウス、ハウス、女の声は裏がえってゆく。私は勝手口から玄関にまわり、ポーチの電気をつけて父を見送った。さらにけたたましくなった犬の声が車のエンジン音に噛《か》みついて、あたり一帯に響きわたった。  トイレの窓のブラインドからのぞくと、子どもたちの乗った自転車が何台も通り過ぎていった。  用を足してボタンを押すと、車のなかで放心したように火のついていない煙草をくわえていた父の姿が渦《うず》に吸い込まれて小さくなった。いつのまにか引き抜いた頬の生《は》え際《ぎわ》の毛を、静かになった便器に棄てた。  トイレから出た途端、セットしたおぼえのない目覚し時計が鳴り響いた。どこで鳴っているのか、応接間、台所、廊下、玄関、音が遠くなる。トイレ、浴室、また台所、駆《か》けまわったあげく、私はふたつの炊飯器のあいだに置いてある目覚し時計を発見して音を切った。  冷蔵庫のなかには父が買ってきた食料が行儀《ぎようぎ》よく並んでいる。私が食べなければみんな腐ってしまうだろう。血がにじんだステーキ用の肉はサランラップで密封されている。父が新たに買ってきた食料を詰め込むと冷蔵庫はいっぱいになり、これ以上は苺のパックひとつさえ入らない。  家中の鍵を点検してまわる。二階の窓を確かめているとき、階下で音がした。父、そんなはずはない。多分気のせいだ。しばらく様子を窺ってから部屋に入った。和室で仰向けになり、目を閉じてぶつ切れになった眠りの糸の端を手繰り寄せようとしたそのとき、ある記憶が漂い出てきた。  六歳か七歳の夏。父は店、母は妹を連れて歯科に行っていて、西区の家には誰もいなかった。私は扇風機を自分のほうに向けてうつぶせになり、父が古本屋で買ってきた本のひらがなを拾っていた。そのまま少し微睡《まどろ》んだのだと思う。  物音がして目を醒ました。高熱の前にくる悪寒《おかん》に似たふるえが襲ってきた。隠れなければ──、息を殺して玄関のほうに目を凝《こ》らしながらあとずさった。廊下に積んであるガラクタに身を隠すことに成功した。見つかりませんように──。気のせいだった。そう思った瞬間、口を覆《おお》われ腕をつかまれ、私の力は男の手に奪われてしまった。男の息づかいと自分の心臓の鼓動が聞こえた。恐怖が胃のなかで固まって吐きそうだった。私はあらがわず力を抜いて、目を閉じた。男は下着のなかに手を入れ、木の先端のような指をぐっと私のなかに押し込んだ。脚のあいだに疼痛《とうつう》が走ったが、私ののどは穴のあいた風船のような音をたてただけだった。男はそのときふるえていた。溺《おぼ》れかかっている人間が流木をつかもうとするかのように男は私にしがみついてきた。  そのとき玄関の鍵がまわる音が聞こえ、母と妹が帰ってきた。男はあわてて私からからだを離しズボンのチャックをあげて逃げた。男が台所の窓から外に出る音、通りを駆け去る音が聞こえ、そしてそれらは母の、ただいまという声で終止符《しゆうしふ》が打たれた。私は足首に巻きついている下着を急いで穿《は》き、トイレに入って鍵を閉めた。そしてひりひりするくぼみをそっと指で撫でた。  夢だったのかもしれない。  少女は原っぱをかき分けて歩いている。強い陽光にぼかされて表情は見えない。鋭い細長い葉が腿《もも》や腕を切る。顔のまわりでは縞模様《しまもよう》の蚊《か》がうなり、足もとでは蝗《いなご》がキチキチという鋭《するど》い鳴き声をたてている。少女は背伸びをして山を削《けず》り取った造成地《ぞうせいち》にそびえる女子校をじっと見ている。そして校門に向かって歩き出す。白いショートパンツのポケットのなかで金のライターを握りしめ、風が草や樹の葉をざわめかせるのを聴いている。空は青く、張りつめ、雲ひとつない。少女は鉄門の下のすきまから這《は》ってなかに入り、汗ばんでいるライターをポケットから取り出す。背骨を伝って冷たい水のような快感《かいかん》が迫《せ》りあがってくる。おや指でライターをこすって、鉄柵に沿って生い茂る枯れ草に火をつけた。火はぱちぱちと音をたて軽やかに立ちあがり、少女のほうに向かってくる。少女は鉄門をくぐり抜けて土手の雑木林に身を隠して様子をうかがう。翻《ひるがえ》る炎、歓喜する風、樹や草は燃えたがっている。心臓はもはやそれほど強くは打っていない、眠気を催《もよお》す時計の音に似て遠くかすかに──。少女は家に帰る道をゆっくりと歩き出す。背後では蛇《へび》の舌のような炎が用務員の小屋の壁をなめはじめていた。  日が暮れた原っぱで少女が爪先立って女子校を眺めていた。ひと影も消防車もすでに姿を消していた。頬《ほお》の涙は乾いていた。  目が覚《さ》めたとき朝だと思ったが、窓ガラスの向こうは真っ暗だった。眠っているあいだに消耗《しようもう》した力を呼び戻そうとして伸びをしたがむりだった。歯も磨《みが》かず眠ったので口腔《こうくう》内にはホットミルクの膜のようなものがへばりついている。  鏡のなかで歯を磨いている自分と視線がぴったり合わさった。退屈そうな表情で澄ましている。  たいして食欲はないがジャガイモをふかすことを思いついて、台所に立った。疵《きず》ひとつないステンレスの上にジャガイモが転がる。帰ろう、蒸し器の湯気が顔に立ちのぼってきたとき私はガスレンジの火を止めた。シャワーを浴びてから出かけたい気もするが、一刻も早くこの家から逃れたいという思いには勝てない。  外に出るとポーチのライトが灯《とも》ったままだった。郵便ポストは柔《やわ》らかな光を浴びてうなだれている。家の窓は暗く、私をとがめるかのように見詰《みつ》めていた。  八月も終わろうとしているのに暑さは一向に衰《おとろ》えを見せない。  父の家にはあれ以来もう一ヵ月も行っていない。父と逢いたくないのは、いっしょに棲めない理由をいくら話してもわかってもらえないからだ。母が家を出た十歳のときから十六歳までの間、西区の家と母が男と同棲しているマンションを行ったり来たりした。その後の十年間は両親と同居していない。父は崩壊した家族の絆《きずな》をもう一度取り戻すために家を建てたのだろうが、私のなかではもうとっくに家族は完了してしまっているのだ。  事務所に妹から電話があったのは今日の昼間のことだった。 「あたしは棲むつもりないからね。それにお父さんはお姉ちゃんが棲めばそれでいいの。むかしからかわいいのはあなただけなんだから。ね、それより映画観てよ。Vシネマなんだけど、新宿で一館だけ上演してるんだ。つまんないかもしれないけど、ま、観て」映画館の名前を告げてから、妹は電話を切った。  改札をくぐって度の強いほうの眼鏡にかけなおし、当て推量《ずいりよう》でネオンの少ない右の方向に歩き出した。腕時計は五時三十分を示している。最終回は四十分にはじまるのだが、予告編があるからおそらく間に合うだろう。  私は陰気としかいいようのない薄汚れたビルの入口の前で歩調を緩《ゆる》めた。階段を下りて地下の映画館に入る。窓口でチケットをもぎってもらうときにポスターを見ると、下のほうに妹の顔写真が出ていた。  館内は土曜の夕方だというのに女がふたりと五、六人の男しかいない。そしてどうしたわけかみんなすみのほうに腰をおろしている。私が中央に座ると空気が少しざわつくのを感じた。  妹は男に髪をつかまれて、スクリーンの下からぬうっと現れた。いきなり全裸だった。柱につかまり右足を高く持ちあげられた格好で後ろから犯されている。妹のあえぎ声はぎこちなく男の腰の動きとまったく合っていない。私の顔は熱くなり、妹の貧弱な乳房をむさぼるように見詰《みつ》めていた。私は妹の不幸を確認しにきたのかもしれない。  スクリーンのなかでは耳を切り落としたり眼球を鏝《こて》で焼いたりする拷問《ごうもん》シーンがつづき、私の胸をむかつかせる。愛情とはいえなくても少なくとも好奇心に屈《くつ》して、こうして映画館にやってきたことを呪いたくなった。スクリーンの全裸の妹が濁《にご》った目で私を見おろしている。尿意を催《もよお》したので席を立った。  トイレのなかには酸っぱい異臭がただよっていた。経血をふくんだ生理用品が汚物入からあふれ、便器の両わきは尿の水たまりができている。  父も母も幼いころから妹を無視しつづけた。長女の私で子育てに飽《あ》きてしまったとしか思えない。常に私との比較《ひかく》のなかで生きてきた妹がささやかな復讐《ふくしゆう》のために私をこのおぞましい便器に誘い込んだ、ふとそんな気がした。すそをたくしあげてからジーンズをおろして用を足した。からだ中に汚物を浴びたような気分に滅入《めい》りながら席に戻った。  妹はせいぜい不良中学生にしか見えない。男が食料を買いに出かけているすきに三人のヤクザがやってくる。男の居場所を訊《たず》ねると、妹は笑い声をひきつらせ自ら上半身はだかになる。カットが変わると、土砂降《どしやぶ》りの雨、窓ガラス越しに妹の歌っている姿になる。濃く生えたふたつの弓状の眉毛の下の生気のない目、もうすぐ二十四歳になるというのに起伏《きふく》の少ない裸身、黄ばんで見える光沢《こうたく》のない肌。妹の脚は大きく開かれ、ひとりの男がピストルの銃口を膣《ちつ》に出し入れしている。あとのふたりはにやにや笑いながらその様をのぞきこみ、妹は歌いつづけている。なにも吐かないのでヤクザは膣に差し込んだままピストルの引金を引く。妹は死ぬ。  私の斜め前に座った男は、映画がはじまってからずっとハンバーガーとフライドポテトを食べている。袋のなかに入っているハンバーガーは、ふたつやみっつではなさそうだ。もしかしたらここにいる観客は映画を観る以外の、なにかべつの目的で椅子《いす》に座っているのかもしれない。スクリーンのなかの妹は決して観客を観ることはできない。代わりに私が後ろをふりかえって観客を観てやりたい誘惑《ゆうわく》に駆《か》られながらスクリーンに向き合っていた。  映画は終わった。映画からエンドマークが消えたのはいつなのか、小学生のころの映画にはまだあった気がする。私は〈林 羊子〉というクレジットを確認するためだけに最後まで座っていた。  映像は消え、館内は明るくなって扉が開かれたが観客たちは席を立たない。私が扉のところまで行っても彼らは終電の乗客のように押し黙っている。私は方向感覚を失い、うろたえて立ち止まった。なぜ席を立たないのかわけがわからないままロビーに出ようとしたとき、聞き覚えのあるため息が聞こえた気がしてふりかえったが──、妹はいなかった。私は階段を駆けあがって外へ出た。  部屋に入ってきてもう十分以上|経《た》つのに川島はまだ額や首の汗をハンカチで拭っている。 「この間の学校どうなった」 「なに、飲む?」 「冷たいものならなんでもいいよ」 「夕食でもどうですかっていわれて、しょうがないからつきあったの。そしたら帰り道、公園の前で抱きつかれて、ホテルに行こうなんていうのよ、あいつ」私は冷蔵庫から烏龍茶《うーろんちや》のペットボトルを取り出してコップに注いだ。 「ひどいな」川島は私の手からコップを受け取った。 「だからわたし、吉田さんを突き飛ばして、さきほどの学校公演の件ですが、来年の春にかならずやると約束してくださらなければ、セクハラで教育委員会に訴《うつた》えますよって脅《おど》してやったの」 「ほんとぉ」川島は間の抜けた声でいった。 「だから、取れちゃった」  呼び出し音を切ってある電話が留守番機能に代わった。 「もしもし、わたしだけれど、素美、素美、もしもし」父の声だ。  私はあわてて受話器を耳に押しあてた。 「明日、新しい家にきてくれ」 「ええっと、明日は、」私は口ごもった。 「どうしてもきてもらわなければならないことが起きたんだ」  私が黙っていると、父は「待ってるからね」といって切ってしまった。 「ちょっとごめんなさい、妹に電話かけます」 「じゃあシャワー浴びてるよ」川島は押し入れのビニール袋のなかから自分の下着を取り出して、ユニットバスに入った。 「もしもし、羊子?」 「なに」不機嫌《ふきげん》な声だった。 「お父さんに呼ばれちゃったんだけど、明日いっしょに行ってよ」 「あたし、あさってオーディションなの」 「じゃあ大丈夫でしょ」 「だめ、お父さんに逢《あ》うとつかれるから。顔がつかれるとね、落ちちゃうんだよ」  押《お》し問答《もんどう》をしたあげくあきらめて受話器を置いた。明日ひとりであの家に行かなければならない。烏龍茶を飲み干したとき、「おい、入らないか」浴室から川島の声が聞こえた。  ブラウスのボタンをはずしたところで、ピアスをしていることに気づいて止め金をはずした。ピアスが落ち、床に膝をついて捜しているとまた電話が鳴った。  あれはいつだったか、カメラを失《な》くしたことがあった。  みんなで、たしか、展望台《てんぼうだい》にのぼった。父は母に、シャッターを押せといった。私は母の背にしがみつくように隠れていた。抱きあげられた妹は伸びあがって父の顎《あご》に頬《ほお》をこすりつけた。母がシャッターを押した。そのあとカメラは展望台の腰かけに置かれた。私は置き忘れているのを知っていながら帰りを急ぐ母のあとを追った。バスからおりたとき父は、カメラと叫んで走り出したバスを追いかけた。父のゆれる肩が獣《けもの》じみていておかしかった。カメラは展望台の腰かけにあるのに。  最後の家族旅行だった。アルバムはあの日から空白になった。  手探《てさぐ》りでピアスを捜したが見つからない。電話は途切れ、浴室からはなんの音もしない。  玄関の鍵は父が電話でいっていた通り、車庫のすみの空缶《あきかん》のなかにあった。工務店とローンの話し合いがついたというのだが、どんな返済方法で工務店が納得《なつとく》したのか父の説明ではさっぱりわからなかった。  靴箱の木彫の人形の横に新しく金魚鉢が置かれ、三匹の赤い和金《わきん》が泳いでいた。  しばらくこないうちに家のなかはすっかりかたづいていた。四つん這《ば》いになって雑巾《ぞうきん》がけをしている父の姿が浮かび自責《じせき》の念に囚《とら》われたが、もしかしたら母がきたのかもしれないという疑いのほうが強かった。台所もきれいになり、テーブルクロスが敷《し》かれ生活臭さえただよっている。応接間とダイニングのガラス戸を開けて網戸《あみど》にしたあと、ジーンズから抜いた足をソファの上に投げ出した。生暖かい風が前髪を舞いあげ額の汗を乾かしてくれる。少しうつらうつらしたのかもしれない。網戸が開く音がしたので驚いてそちらを向くと、濡れた髪を日本手ぬぐいでつつんだ片栗粉《かたくりこ》のような白い顔をした中年の女が私を見ていた。女の肩越しから鳥打帽《とりうちぼう》を被った男が首を突き出して、「だれ」鋭い声で訊《き》いてきた。 「ここの家の者です」私は視線を宙に浮かせた。だれ、と訊《たず》ねたいのは私のほうだ。  女が男の耳になにかささやいた。 「奥さん、なの?」女は私の顔をのぞきこんだ。 「娘ですけど」と答えると、女はだしぬけにくっくっと笑い出し、靴を脱いで家のなかにあがってきた。 「あなたが素美さん」女はまばたきもせず穴のあくほど私を眺めて、馴《な》れ馴《な》れしく肩に手をまわした。 「主人とふたりでプールで泳いできたのよ。サウナもあって気持ちよかったわよね」女は男のほうに目をやって相槌《あいづち》を求めたが、男は無視して庭から勝手口のほうに姿を消した。このふたりはいったい何者なのかとぼんやり考えはじめたが、ジーンズを脱いだままでいることに気づいて、あわてて足を突っ込んだ。 「いい、いい、そのままで。暑いでしょ」男は勝手口から台所に入ってきた。 「あのね、だれか知らない男が入ってきたら、家のなかに逃げ込んじゃだめ。はだしでもなんでもいいから外にね、逃げるのよ」女はソファのすみに腰をおろした。 「この部屋にはエアコンがついてないんだよ。でもとなりの和室のエアコンをつけて扉を開けっぱなしにしてさ、大型じゃなくちゃだめだけど、扇風機《せんぷうき》を廊下に置いて冷たい風をこの部屋に送りこむんだよ。そうすりゃけっこう涼《すず》しくなる。扇風機を買ったほうがいいな」男は鳥打帽をダイニングテーブルの上に置いた。  父方の親戚《しんせき》だろうか。幼いころに逢っている可能性があるので訊《たず》ねることはできない。 「ついこのあいだもね、その先の高瀬さんち、空《あ》き巣《す》に入られたんですって」 「二階にはどの部屋にもついてんだけどな、エアコン」  男と女の話は決して交わらない。 「なにか飲みますか」と訊《き》くと、「いいわよぉ、そんなこと気にしないで」華《はな》やかに笑った女の頬骨の盛りあがりに気づき、私はそれを父の笑顔に重ねた。やはり父方の親戚だろう。  電話が鳴る。女と私がほとんど同時に立ちあがったその瞬間、呼出し音は事切《ことき》れた。女はてのひらで口を覆いもせずに大きなあくびをし、「泳いだあとって眠くなるわねぇ」と目尻《めじり》に涙をにじませ、男は開襟《かいきん》シャツの胸ポケットから取り出したショートピースに火をつけ、顔のまわりに煙をただよわせた。 「あたし、ちょっと小一時間だけ眠らせてもらいます」と女は玄関脇の和室に入ってしまった。私も、ちょっと、と曖昧に呟き鞄を抱えて二階にあがった。  奥の和室に入り、押し入れを開けた。  少女がいた。膝《ひざ》をかかえた少女は猫のような動作で全身の筋肉を縮めて私を見た。  軒下に吊された籠のなかのカナリアがさえずった。少女は沈黙の防壁《ぼうへき》を崩さない。だがカナリアの声がたかまると、結んでいた唇を薄く開きうっとりと耳を傾けている様子だ。鎖骨《さこつ》のあたりでそろえた茶色い髪、きらきら光る切れ長の目、形のいい顎《あご》の線、唇はしゃぶって小さくなった赤いドロップのような色をしている。このまま永遠につづくのではないかと思われた瞬間、少女は私の視線をふりほどいて押し入れのなかから飛び出した。そしてその少し怒った肩を私の腕にぶつけて擦《す》り抜けていった。シッカロールのにおい、踏みつぶしたたんぽぽのにおいが鼻腔をくすぐった。  入れ違いに五、六歳くらいの少年が入ってきた。 「お姉さん、お母さんの友だち?」少年はすきだらけの歯を見せてひとなつっこく笑った。 「ううん」と否定はしたもののなんといったらいいかわからない。 「ぼくの部屋見せてあげる」少年は私の手をひっぱって父が妹の部屋だと決めた十畳の洋間に入った。  机には小学一年生の教科書が並べられ、ペルシャ絨毯の上にはロボット、線路、ブロックなどが散乱し、壁に画鋲《がびよう》で止めてある夏休みカレンダーには太陽と雲と雨の絵がクレヨンで書き込まれている。ほとんど太陽ばかりだ。そして私の部屋にあった小型テレビがここに移されている。 「ね、遊ぼうよ」彼は私の手にロボットを押しつけたかと思うと、自分のロボットで激しく攻撃《こうげき》しかけてきた。私はしかたなく低いうなり声をあげながらロボットをのたうちまわらせた。しばらくして私のロボットの銀色の肩あてがとれると、彼は飽きてしまったのか、ブロックを組み合わせて、クピピピクュケクジュペラクピピ、裏声でいった。 「なに?」 「ピングー語に決まってるだろ」彼は軽蔑《けいべつ》の眼差しを私に向けた。 「ピングー語って?」 「もしかして見たことないの? 水曜の朝12チャンでやっててね、南極にすむペンギン一家の話でね、それでね、クピクチュグゲキとかしかしゃべんないの」彼はひきだしから絵本を取り出した。  私は渡された〈テレビ絵本〉をめくってみた。とてもアニメーションとは思えない風変わりな絵本で、粘土細工でできたペンギンの親子が主人公だ。 「さっき、なんていったの、ピングー語で」 「自分の基地《きち》つくってっていったに決まってるだろ」両手をポケットにつっこんでからだを少し斜《ななめ》にした。 「いつこの家にきたの?」 「一週間くらいまえかな」少年はしゃっくりをしながら答えた。 「どこからきたんだっけ」 「横浜駅」またしゃっくり。 「横浜駅の近くに棲《す》んでるんだ」 「ううん、横浜駅」ブロックを高く不安定に組み合わせてゆく。  音がするので目をやると、先刻の少女が私と視線を合わせないように天井を見あげて、片手に持ったスリッパで扉をたたいている。 「よしはる、かおる、おりてらっしゃい」  少女はスリッパに右手をつっこんで階段の壁をたたきながらおりていき、少年は舌打ちしてブロックの塔《とう》を脚で蹴《け》り倒した。部屋を出ようとしたとき、机のはしに置いてあるミニパトカーが動きだして机からすべり落ちた。少年はミニパトカーを一瞥すると、 「まぬけなパトカーだなぁ」扉を乱暴《らんぼう》に閉めて階段を駆けおりた。  コードレスフォンでパチンコ店に電話した。 「林の娘ですけれど、父は」 「マネージャー、今日はまだいらっしゃってませんよ」慇懃《いんぎん》な調子のなかからも不快感が伝わってくる。 「こちらも、朝からポケベルで呼んではいるんですけどね。連絡があったら伝えときます。どちらにいらっしゃいますか」  音がうるさいので一語一語切り落とすように大声を出した。 「港北《こうほく》区の、新しい家に、います、と伝えて、いただけますか」  いい終わらないうちに従業員は電話を切った。  私の部屋は少女が使っているらしく、クローゼットのハンガーには緑色の更紗《さらさ》のワンピースと白いレースのブラウスがかけてあった。窓から吹き込む風で椅子の背もたれにかけてある麦藁帽子《むぎわらぼうし》がゆれ、かさかさと乾いた音をたてた。本棚は二段目まで埋まっている。世界児童文学全集、エドガー・アラン・ポーや小泉八雲の小説集。父が西区の家から持ってきたのだろう。椅子に座って〈黒猫〉を手にとってなんページかめくったとき、敏捷《びんしよう》で小さなてのひらが私の両目を覆《おお》った。ひんやりと冷たい。からだをひねってその骨ばった細い手をつかんで引き寄せると、少女は急に力を抜いてあおむけに倒れた。私は薄笑いを浮かべてしゃがみ、たるんだソックスを引きあげてやった。まくれあがったスカートからのぞいている内腿《うちもも》にインクがにじんだようなあざがある。そっと指先でふれてみた。 「痛い? 転んだのかな」  なにを訊《き》いても黙っている。質問されるのがいやなのか、あるいは耳が聞こえないのか。私は呼吸が不規則になっているのを気取《けど》られないようにして、「かおるちゃんていうんだよね、どんな字をかくの」耳もとでささやいた。電話が鳴っている。私が両わきのしたに手を差し込んで少女を立ちあがらせようとしたとき、女がぬっと現れた。 「素美さんのお父さんからいま電話があってね、あらあら、甘えちゃって」  少女がのろのろと腰をあげ部屋から出て行くのを見計《みはか》らい、女は濡《ぬ》れた手をエプロンでぬぐって口を開いた。 「あの子が一年のときに担任の先生に呼び出されたんですよ、ひと言もしゃべらないって。家ではしゃべってたの、普通に。でもだんだん口数が減って二年くらい前からひと言もしゃべらなくなったの。それからが戦争だったわよ。あたしと主人とふたりでね、連れて行ったの、精神病院、児童カウンセラー、新興宗教にまで。いちばんお金がかかったのは、祈祷師《きとうし》。ときどきテレビにも出る有名な先生なのよ。でもだめだった、ぜんぜんだめ。三十万も払ったのに。ものすごく大がかりなお祓《はら》いだったんだから、部屋の一角に砂を敷きつめて、かおるを寝かせて、そのまわりを祈祷《きとう》しながら走りまわって、大量のお塩とお酒をふりかけてね、」  私がせきばらいすると意外にも効果を発揮《はつき》して女は一瞬黙った。そのすきに、「父の電話は?」と割り込んだ。 「あ、ええ、素美さんがきてるってこと伝えたらね、三十分以内にくるって。晩のごはんはカレーとサラダでいいかしら」女は声を急にひそめ、「かおるはね、いじめにあったんじゃないかってにらんでるのよ。一度、パンツを穿かないで帰ってきたことがあるの」女は息つぎのために黙ったが、勢いよく鳴きだしたカナリアとともにふたたびしゃべり出した。 「でも安心、二学期からかおるも吉春《よしはる》も新しい学校だから。このあたりはどんどん家が建つから転校生だってめずらしくないでしょ、きっといじめられないわ、だいじょうぶよ。そうだ、忘れてた、住民票と転入手つづき」  住民票、転入手つづき──、首の後ろがさっと汗ばみ胃から酸《す》っぱいものがあがってきた。彼らはこの家に棲《す》みつこうとしているのだ。父はなにを考えているのだろう。 「素美さん知ってる?」 「え」 「港北《こうほく》区役所よ」 「大倉山《おおくらやま》の駅のすぐそばです」  自分の声があまりにも虚《うつ》ろに響いたので、思い切って訊《き》いてみた。 「ここに棲《す》むんですか」 「そのつもりだけど、いけないかしら」 「失礼ですが、父の親戚《しんせき》ですよね」 「いいえ」女はねっとりと首をふった。 「え? じゃあ、」 「もしかしてお父さんからなにも聞いてない?」  親戚ではないとしたらいったい──、私はますます混乱《こんらん》した。 「じゃあびっくりしたでしょ」座りなおした女は、わざとらしいほど深刻《しんこく》な表情になった。 「あのね、ここにきたのは一週間前、そのまえはあたしたち横浜駅の構内《こうない》でホームレスしてたんです。三週間くらいかしら、三週間もよ。夏だったのが不幸中の幸いで、冬だったら家族四人凍え死んでたところよ」  女の話をそのまま信じるとすれば、経緯《けいい》はこうだ。彼らは秦野《はたの》市の春日《かすが》町で〈会田《あいだ》電気〉という電気店を経営していたが不況のあおりで不渡《ふわたり》を出して倒産した。歩いて十分のところに開店した激安店《げきやすてん》に客を奪われたのが致命的だったという。熊本《くまもと》にある男の兄の家に身を寄せようということになって荷物をまとめ、最後に残った三十万を手にして、小田急《おだきゆう》線から相鉄《そうてつ》線に乗り継いで横浜に着いたときにバッグをあけると、三十万を入れておいた茶封筒《ちやぶうとう》がなくなっていた。掏《す》られたのだと女はいう。 「主人が義兄《にい》さんに電話かけて、郵便局に電信為替《でんしんかわせ》送ってくれるように頼んだの。そしたら、迷惑《めいわく》だからくるなっていわれたのよ。あたし、どうしようかと思っちゃった」 「それで父とは」延々《えんえん》とつづきそうな女の話を断ち切って口をはさんだ。女の話がつくり話であっても私にとってはどうでもいい。なぜこの一件に父が登場したのか、それだけを知りたかった。 「一週間前、あたしたちが横浜SOGOのシャッターの前にビニールシートを敷《し》いて寝ようとしてたら、深夜一時ごろだったわよ、あなたのお父さんが立ち止まったの。どうしたんですか、と訊《き》かれたから、いま話したみたいな事情を説明したのよ。あたし。そしたら、うちにいらっしゃい、だれも棲《す》んでいないからって」 「じゃあ、それまでの三週間はどうやって?」  女の話は、まるでそれが自慢だとでもいうように喜々《きき》として屈託《くつたく》がなかった。 「主人がポケットに持ってた八千円でやりくりしたの。たいへんだったわ。でもね、いっちゃおうかな、主人にはないしょよ、ハムとか缶詰《かんづめ》とか、あたし万引《まんびき》しちゃった、生まれてはじめてよ」  そのとき玄関のチャイムが鳴った。 「おかえりなさい」少年の声。父が帰ってきたのだ。階段をおりると、父は鉤《かぎ》のように曲げた左右の腕にみっつずつスーパーの袋をぶらさげていた。それを冷蔵庫の前に置くと、結婚式の司会者然とした笑みを素早くこしらえた。 「お客さまを紹介する。こちらは会田径一郎《あいだけいいちろう》さん、奥さんの房枝《ふさえ》さん、かおるちゃん、吉春くん」  父は一家の顔をまともに見ようとはせず、そのままテーブルについた。女が背後から「夕ごはん、すぐしたくしますから」といってもわずかにうなずくだけだった。少女と少年は口を固く閉じて父を凝視《ぎようし》している。私も父の目をのぞいているのだが、その目はあらぬ方《かた》に向き、唇は言葉を見つけようとしてもがいている。私は父の右手に目を止めた。包帯を巻いている。 「どうしたの」 「昨日、缶詰を開けようとして、切った」 「缶のふた?」 「四針も縫《ぬ》った」父はその瞬間を噛《か》みしめるようにいい、立ちあがってぎこちない動作で買ってきた食料を冷蔵庫にしまいはじめた。女は「あたしやりますから」と父を押し退けてビニール袋のなかのものをかたづけ、カレーが入った大鍋《おおなべ》をレンジにかけた。 「かおる、ドレッシングつくるの手伝って」  少女は母親に手渡されたボウルを受け取り、泡立て器でかき混ぜた。それまで腰を浮かして成り行きを見守っていた男はほっとして椅子に座り、夕刊を広げた。少年はテレビのリモコンでチャンネルを操作《そうさ》した。  父は居間から出ていった。しばらくすると洗濯機のまわる音が聞こえてきた。扉を開けると、風呂場にしゃがみこみたらいのなかでなにかを揉み洗いしている父の姿が目に入った。父は黒いストッキングがウナギのようにからまっている左手をたらいから出し、包帯が濡れるのを気にせずに両手でストッキングをしぼって指先のしずくをはらうと、向き直って私にうなずき、「その日に出た汚れものはその日のうちにきれいにしなければならない」とふたたびたらいを湯で満たした。父は少年のシャツについた黒々とした油染みに洗剤をかけながら「この世のなかには落ちない染みはない」と軽石でこすった。  父は席につくなり無造作にカレーを食べはじめた。父のとなりに座った少年は、口へ持っていこうとしたスプーンを肉のかけらごと床に落としてしまい、それを手で拾うと、手についたカレーをテーブルクロスで拭《ふ》いた。父はまずテーブルクロスを見て、男の子の顔に目を移し、最後に自分の皿に視線を落とした。テレビを観ながらカレーを食べていた男がふいにスプーンを置いて、庭のほうにからだを向け腰を浮かした。 「庭にはやはり池をこしらえたほうがいい。庭の真ん中に池を掘ってですね、錦鯉《にしきごい》を飼うんです。でね、二階のベランダにライトを吊って、台風の日にライトアップすると、鯉が跳ねるのが見えて、そりゃ、けっこうなものですよ」  女は父の顔をのぞきこんで笑った。父はコップを持って立ちあがり、台所から汲《く》んできた水を一気《いつき》に飲み干した。 「庭に池を掘るのは縁起《えんぎ》が悪いんじゃなかったかな」父の声には哀願しているような響きがあった。 「こりゃあ驚いた、そんな話は初耳ですよ。庭に池を掘るのが縁起悪いなんて聞いたことありませんな」男は遠慮《えんりよ》がちに笑い出し、頭をふって、「そんなばかな、いや失礼、そのぅなんですよ、どういえばいいのかな、そうだ、そうそう、縁起もなにも公園に砂場をつくるようなもんで、それがなければ画竜点睛《がりようてんせい》を欠くってやつですよ、なぁ」と少年の頭をつかんだ。 「さぁ、どうなんでしょうね、公園に砂場がなければへんでしょうけど、でも林さんには林さんの考えもおありでしょうからねぇ。それに砂場のない公園だってありますよ」女は、おやめなさいとばかりに男をにらみつけた。 「砂場のない公園があるかい、どこに、え?」男は薄笑いを浮かべた。 「なにをいい出すのやら、このひとは」女は笑いで時間を稼《かせ》ぎ、ようやく答えを見つけて、「日比谷公園に砂場がありましたか、それこそ池ならあったような気もしますけどね」と男のわき腹をつねるようにいった。  私はトマトを口のなかに入れようとしている少女を見た。口自体は小さいのだが下唇はふっくらとしている。私はコップを手に取り、コップの縁《ふち》越しに少女を見ながら氷が口に入らないように水を飲んだ。テーブルがかすかに振動《しんどう》している。少年がテーブルの下でこぶしを固め、膝をたたいているのだ。父は台所へ行き、空《から》になった皿を流しの洗い桶《おけ》に沈め、「素美、夜はしっかり戸じまりしろ、雨戸を閉め忘れないようにね」と力なくいった。父がテレビの上に置いてある車のキーをズボンのポケットに入れると、少年はそれがなにかの合図でもあるかのように勢いよく立ちあがって玄関に駆け出していった。靴をそろえるのだろうか。父は私にこの一家のことを説明しに帰ってきたのに、ふたりだけになって密談《みつだん》めいたことをするのがはばかられたのだ。 「行ってらっしゃい」女はほがらかな声でいったが父のこころはすでにこの家にはない。玄関の扉を閉めると、蝶番《ちようつがい》がきしんだ。  女は肉を噛みながら「お肉ちょっと固かったかしら」と首を傾《かし》げた。 「いつまでも噛んでないで飲み込めばいいんだ、なぁ、吉春」男はひとさし指を楊枝《ようじ》代わりにして奥歯にはさまった肉をとると、「あんたいける口?」黄色くにごった白目を私に向けた。 「そんなには」 「じゃあいけるんだ。どう食後に一杯」 「あなた、なにいってるんですか。吉春、テレビ消して宿題やりなさい」女はぴしゃりといって立ちあがった。 「だって転校するんだろ」 「まえの学校の宿題持ってきなさいっていわれたらどうするのよ」  少年は舌打ちして両手をポケットにつっこんだままのろのろと二階にあがっていった。「しばらく泊まっていくんですか」台所の陰《かげ》に身を置いている女は鼻腔《びこう》をわずかにふくらませて目を細めた。 「ゆっくりしていけばいいじゃありませんか」女はちらっと私の表情をうかがってから、「大人数なんだからお姉さんといっしょにお風呂入んなさい」と少女にいった。  少女は盲《めし》いた猫のような目を私に向けた。顔が赤らむのがわかり、私は唇を噛んだ。 「仕事があるからあんまり長くはいられないんです」のどから出た声はかすれていて、自分でも聞き取りづらかった。  少女は素早《すばや》く服を脱ぎ棄てると熱さをたしかめもせず、いきなり首まで湯に浸かった。洗面器で汲《く》んだ湯はぬるかった。底のほうはほとんど水だろう。案《あん》の定《じよう》湯温は三十度に設定されていた。ボタンを押して設定温度をあげてから湯船に入った。そして膝《ひざ》をかかえて湯のなかで白くゆらめいている少女のからだを盗み見た。少女は退屈《たいくつ》そうに自分の指先に目をやっていたが、だんだんと熱くなる湯の表面を右手で撫《な》でるようにして波を立てた。  背を向けて湯船の縁《へり》に腰かけたので、「背中洗おうか」と訊《き》くと、素直《すなお》に洗い椅子に座った。私はタオルにせっけんをこすりつけて少女の背中を洗った。華奢《きやしや》な肩甲骨《けんこうこつ》、背中から腰にかけてのなめらかな曲線。少女はからだをひねり、私と向き合った。少女の顔はそれ自体かすかな光を放っている。私はその顔から目を逸らし、もう一度タオルにせっけんをつけた。湿気と弾力のある暖かい空気。心臓は激しい動悸《どうき》をくりかえしている。少女の右脚を腿《もも》にのせ、少し黄ばんだ土踏《つちふ》まず、爪先《つまさき》を洗う。脇《わき》腹と腰に薄紫色のあざがあるのを見つけ、眠りのなかでしゃべったり笑ったりするひとのように、「どこにぶつけたんだろ、かおるちゃんはおてんばなんだね」などと愚《ぐ》にもつかないことを口走りながらそのあざを指先で押してみた。せっけんの泡をつけたてのひらで少女の脛《すね》を軽くさすると、産毛《うぶげ》がほんのかすかに逆立《さかだ》つのが感じられる。二の腕、肘《ひじ》、手、首。少女の耳朶《みみたぶ》についたせっけんの泡を指でぬぐい、「髪洗う?」と訊《き》くと、少女は首を横にふった。せっけんの泡は少女の鎖骨《さこつ》のくぼみにたまっている。陥没《かんぼつ》した柔らかい乳首、笑窪《えくぼ》のような臍《へそ》を洗い、私の手が渦を描いて下腹部におりていっても、少女はそのまま植物のように身をまかせている。膝はあまり固くは閉じられていなかったので、盛りあがった無毛の恥丘《ちきゆう》、羽化《うか》したばかりの蝉《せみ》のような性器が私の目をとらえた。そのときなにかがふっとにおった。私は息をあえがせていた。「しゃがんで」というと、少女はしゃがみ、私は少女のからだのなかでもっともくぼんでいる場所を指で洗った。  少女は湯に浸かって、雑に自分のからだを洗う私をぼんやり眺めていた。  脱衣所に送り出した少女のからだがバスタオルで隠れると、ようやく脳に酸素が戻ってきた。  寝がえりを打った少女の顔は私のすぐ横にある。つい先刻まで赤みがかって見えた少女の四肢《しし》がやけに白く浮かんでいる。寝息は聞こえない。私はかつてだれかに見守られながら眠ったことがあったろうか。枕のはしを枕に重ね、私は少女のからだに寄り添った。日向《ひなた》くさい髪のにおい。この家に足を踏み入れると途端に襲いかかってくる不安が、少女の髪のにおいと寝息の波のなかにきれいさっぱり消えてゆくような気がして、私はいつしか寝入っていた。  ひと晩中夢を見ていた気がしたが、起きたときにはなにひとつおぼえていなかった。一分ごとに陽射《ひざ》しは強くなり影は短くなってゆく。薄く目を開けると、隣家《りんか》の樹木の葉がうなずくように風にゆらいでいるのが見えた。少女の姿はなかった。てのひらには昨晩からだを洗ったときの骨ばってはいるがなめらかな肌の感触がまだ残っている。私は少女の頭部でくぼんだ枕に顔を埋めて目を閉じた。  居間の扉を開けると、ダイニングテーブルで絵日記帳を広げている少年が色鉛筆の後ろを噛んだまま、盗み見るような一瞥《いちべつ》をすばやく投げてよこした。女は縁側《えんがわ》の物干し竿《ざお》に洗濯物を干している。ピンク色の下着を干そうとしたとき、私は思わず顔を背けた。テーブルの白い皿の上にはまだぬめぬめと光るプラムの種がのっていた。少女が吐き出したものだろう、おそらく。  廊下に出ると突然トイレの扉が開き、男が出てきた。開けっぱなしの扉を閉めようとしたとき、便器にたまった尿とそこに棄てられたほぐれかけた煙草の吸殻《すいがら》が見えた。嘔気《はきけ》をおさえながらボタンを押して水を流したが、フィルターは流れない。トイレットペーパーでつまみ取って台所のゴミ箱に棄《す》てた。汚れた右手を洗うために左手で脱衣所の扉の把手《とつて》をまわすと、少女が編みかけの髪を持ってシャワードレッサーのまえに立っていた。「じゃまだからあっちでお姉さんにやってもらいなさい」洗濯物をかかえて入ってきた女が、少女の背を押した。編みかけの髪がほどけて少女の肩に散らばった。  陽だまりになっている網戸《あみど》の近くに椅子を寄せ、少女を座らせた。ポニーテールにしようと、右手で梳かしながら左手に髪をたばねてゆく。額に落ちる髪、耳やうなじのあたりをぼかす茶色い髪、どうしても汗で火照《ほて》った首すじに目がいってしまう。うなじのちょうど真ん中に小さな焦茶色のほくろがある。髪を結んでいる最中、少女はおくれ毛を何度も右手でかきあげた。「だいじょうぶ、ピンでとめるから」といっても聞かない。 「爪が伸びてるね、爪切ってあげる」返事をする代わりに少女は視線を足もとに落とした。  サイドボードのひきだしから父が愛用しているドイツ製の爪切りを取り出し新聞紙を敷《し》いた。左手の薬指の爪に白い斑点《はんてん》を見つける。「これは思い星といって、だれかに思われると出てくるんだよ」と、爪の表面をそっと撫でると少女は小さい唇を半ば開き微笑を浮かべた。小さく真っ白な歯がこぼれて見える。私の手はその露《あらわ》なふくらはぎに沿って静かに下がり、少女のソックスを脱がした。足の爪を切りはじめると少女はさらに微笑んだ。  足の小指の先を切ってしまった。血のしずくがみるみる盛りあがる。思わず小指を口にふくんだ。血の味が口いっぱいにひろがり、少女の視線を感じて顔が熱くなった。頭をあげると少女は間隔《かんかく》の開いたふたつの目を細め、半開きになっている私の口を眺めた。私は少女に顔を向けたまま足の指をおや指から順に撫でていった。少女はくすぐったがって両の膝《ひざ》をこすり合わせたり打ち合わせたりしたが、私はその華奢《きやしや》な足首を握りしめて離さなかった。 「お姉ちゃん、公園に行こうよ」背を向けて絵日記を書いていた少年が上体を起こした瞬間、我にかえった。  少年は父が紙袋に入れて持ってきたパチンコの景品のガムを口に放り込み、縁側《えんがわ》に置いてある靴を履いて庭づたいに外へ出た。少女は泥《どろ》がこびりついているスニーカーのかかとを踏みつぶし、ひももむすばずに立ちあがった。私は少女の肩を押して座らせ、靴《くつ》ひもをむすんでやった。そして私もサンダルを履いて玄関に出た。  少年がまたがったところどころ塗料が剥《は》げた青い自転車は、私と妹が小さいころに乗っていたものだった。父が西区の家の物置から出してきたのだろう。少女はショートパンツを下にひっぱり、魂が抜けたようにたたずんでいる私を横目で見ると、大きく足を開いて荷台に乗った。 「もう一台あるのに、どうして乗らないの?」私は自分が拾ってきた赤い自転車を指さした。少女は身を固くして弟の腰をつかみ、私のほうを見ようともしなかった。足が届かないのかもしれない。 「帽子《ぼうし》かぶって行きなさい」いつのまにか私の背後に立っている女は破裂《はれつ》するような声を出して私の首につばを飛ばした。  姉弟はぐらぐらゆれながらまっすぐ伸びたゆるやかな坂道をおりていった。 「お茶でも飲みましょ。なんだか鉛筆みたいな髪型ねぇ、もっと、こう、ふわっとさせたらどうかしら。ね、素美さん、いっしょに美容院行きましょ。伊勢佐木町《いせざきちよう》にね、カットファイブっていうカットのじょうずな店があるらしいの」女はエプロンを外して玄関に入り私の顔を見た。 「あの、いいです、わたしは」 「どうして、いまの髪型だとカリカリして見えて、イメージ悪いわよ、もう少しやわらかく」女はテレビの上に置いてある札入れからなにかの切り抜きをとり出して電話の前に立った。 「いやなんです。髪も痛むし、パーマ液かけると頭痛がして」 「そぅお、じゃカットだけでも」 「二週間前にそろえたばかりですから」  女は頬《ほお》をふくらませて黙りこんだ。私は椅子に座って頬杖《ほおづえ》をついた。カーテンのすきまからシャベルに片足を乗せて土を掘っている男の姿が見えた。  池をつくろうとしているにちがいない。 「じゃあ、ひとりで行ってこようかしら、素美さん、ね、お金貸してくれる」  父はこのホームレスの一家をいつまで養うつもりなのだろうか、と薄ぼんやり考えつつソファに置きっぱなしにしてあるバッグから財布をとり出した。私は他人にあつかましく要求されたときに断ったためしが一度もない。一万円札をテーブルのすみに乗せると、女は電卓《でんたく》のように電話のプッシュボタンを押し、「今日予約できるかしら、パーマと白髪染《しらがぞ》め、何時でもいいんですけど」爪で机をたたいてリズムをとりながら相手の返事を待っていたがふいに受話器を手で覆《おお》って、「お湯沸かしてちょうだいな」顔を台所のほうにふった。  女の側《そば》に戻りたくないので沸騰《ふつとう》するまで台所にいることにした。レンジの炎のせいで眼球がずきずきうずいてくる。二、三回まばたきをして勝手口の曇りガラスを見ると、黒いひと影が立っている、父だ。父はくすり指でこんこんと扉をたたいてから、ふらりと台所に入ってきた。そして見えないガラスでも拭くように目の前で右手をひらひらさせた。きたことを知らせるなという意味だろうか。「なに?」声を殺して訊きなおすと、父は薄い眉《まゆ》を弓状に曲げひび割れた唇をすぼめ、息だけの口笛に似た声でなにかしゃべったのだが、女の声にかき消されてまったく聞こえない。父は台所を見まわして洗っていない食器をじろりとにらみつけた。 「そう、じゃあ明日一時に、あ、ごめんなさい、二時のほうがいいわ、二時に変えてください。じゃあ明日二時におうかがいしますね」女は電話を切り、「あなた、コーヒーいれるからひと休みしてくださいな」と庭にいる男に声をかけて台所にやってきて、少女じみた悲鳴をあげた。その声に驚いたのか、となりの犬が吠《ほ》えはじめた。 「いやだ、林さん、泥棒みたいにこそこそ入ってきてぇ」  父はテーブルに移動し、奇妙に煙《けむ》った目つきで慎重《しんちよう》に庭をのぞいている。 「林さん、コーヒーでいいですか」  父はかすかにうなずいて煙草に火をつけた。鼻腔から吐き出された煙は二本の牙《きば》のようだった。  廊下では扇風機がうなっていたが、部屋のなかの暑苦しさは微動《びどう》だにしない。煮詰《につ》まった空気が私たちの皮膚の上に重くのしかかってくる。私はひとさし指で鼻の下の汗をぬぐって、かおりのない熱いコーヒーを飲んだ。縁側に腰かけた男はなんのつもりか私にウインクして口もとにコーヒーカップを運び、コーヒーに、はあっと息を吐きかけて飲み、しかめづらで笑った。笑うと黒ずんだ歯茎《はぐき》が剥《む》き出しになる。  父はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、背広の内ポケットから銀行の封筒をとり出してテーブルの上に置いた。女はぎこちない動作で立ちあがり、私と父のコーヒーカップを持ちあげて封筒を一瞥《いちべつ》した。 「とっといてください」父は女と視線が合わないようになにも映っていないテレビの画面をじっと見ていた。唇は閉じてはいるがきつく結ばれてはいなかった。「少ないけど」父は女のまえに封筒をすべらせた。私は封筒をつかみとろうとする手を膝の上でむずむずさせていた。 「素美さん、返しとくわね」女は封筒のなかから一万円札を引き抜き私に差し出した。  頭のなかでバドミントンの羽根が行ったり来たりするような音がしてきた。父は台所で私になにをいおうとしたのだろうか。金を渡すためにわざわざ帰宅したのだとすれば、這いあがれないほどの深みにはまってしまっているとしか思えない。もしかしたら私がここに棲《す》みつくための策略《さくりやく》、そうでなくても私が棲むことを約束するまでこの一家に断固たる態度をとらないつもりなのかもしれない。たまりかねた私が彼らを追い出せば、ここに棲むつもりはないとはいえないからだ。  気がつくとだれもいなくなっていた。家というものはおかしい。ふいにひとが消えたり現れたりする。私は階段をのぼって部屋の扉をあけた。父の背中、床に開かれている分厚いアルバムが目に入った。父の手にある一枚の写真がふるえている。  母の写真だろうか。背後からのぞくと、スクール水着姿の私だった。  翌朝の食卓は浮き立っていた。 「吉春、パーマ何時に終わるか、お母さんに訊《き》いてみろ。今日は外で食べるぞ」男はとなりに座っている女がそこにいないかのように話す。決して直接話しかけないのだ。「パーマ何時に終わる?」少年ははしの先で目玉焼きの黄身の部分を切り取り、少女の皿に移した。途端に黄身はつぶれ、少女はどろっと流れ出した黄身を見詰《みつ》めている。 「そうねぇ、四時には終わると思うわよ」  少女はスプーンで黄身をすくって、なめた。 「素美さん、は、」女は一瞬声を途切らせてから、「四時だけど、ごいっしょしない?」探るような眼差しをよこした。男は左手で少女のうなじを撫でながら目を瞑《つむ》って頭をゆっくりふっている。くわえた煙草から灰が落ちたが気づかない。 「わたしはうちに」  少女が顔をこちらに向けた。 「そぉ、じゃあ夜は冷蔵庫に焼うどんの材料入ってるから。洗濯機まわしとくからあとで干しといてね」女は白けた微笑を浮かべて卵の黄身で汚れた口をティッシュで拭いた。  カナリアのさえずりが最初は弱々しく、それから大きくなって、やがて家中を駆けめぐった。  シャンプードレッサーの鏡は指紋《しもん》や歯磨《はみがき》で汚れていた。洗濯機の回転音に耳を傾けながら歯を磨いた。この家のなかで少女とふたりきりになるのだ。彼らが外出のしたくをはじめたとき、少女は二階の自分の部屋に鍵を閉めてしまい、男が声を荒げても女がなだめすかしても、部屋から出ようとしなかった。  もうじき一時間になるがまだ部屋にこもっている。なにをしているのだろう、眠っているか本を呼んでいるかのどちらかにちがいない、それとも、と頭のなかに浮かんだ少女の姿態《したい》がひらひらと舞いはじめたとき、背後の扉が開いた。少女は短く笑ってから唇をにおいのありかを捜《さが》す犬の鼻のようにひくつかせると、廊下へ出た。私は少女のあとを追った。少女は草の汁と泥で汚れたスニーカーを履いて玄関の扉を開けた。私は餌《えさ》を求めて浮かびあがった靴箱の上の金魚たちを無視して内鍵をかけ、靴を手に持って、勝手口にまわった。鍵はなかなか閉まらない。庭を通っておもてに出た。少女は自転車にまたがったまま郵便ポストを開け、送られてきたダイレクトメールや電話代の請求書にさっと目を通してもとに戻し、右手のおや指のささくれをかじりとってから脚で地面を蹴《け》って、家のまえの陰《かげ》ひとつない道をぐるぐるまわった。私にはうしろに乗るようにという仕草《しぐさ》に思えたので、「だいじょうぶ?」と訊《き》くと、少女は唇をきっとむすんでうなずいた。  ふと見あげると、車庫に接したとなりの二階の窓から、額と鼻の頭と両手をガラスに押しつけた男の子が私たちを見おろしている。  父さえよければ、一家がこの家に棲《す》みついたとしてなんの不都合があるだろう。棲《す》むつもりもなければ遺産《いさん》だとも考えていない私が、一家が出ていくのを望むのは理不尽《りふじん》なことのように思える。ただ生理的な嫌悪感がはっきりと私の意識の外側を隈取《くまど》っている。一方で私の生理は少女にしっかりとつかまれているのだ。しかし父がいつまでもいっしょに暮らすことを望むはずがない。家はにわかに膨張《ぼうちよう》しはじめたように感じられた。  私が荷台に横座りになると、少女は腰を浮かして力いっぱいペダルを踏んだので、からだを支えるために両手でサドルをつかんだ。そして少女はからだを左右にゆさぶり腰を浮かして坂道をのぼっていく。大通りに出ると、私の顔をちらりと見て車道を走った。こころ持ち下り坂になったので少女はけだるい姿勢でサドルに腰をおろした。私は彼女の腰に手をまわした。  夏の日にはめずらしく風が強かった。風が、自転車からおりた少女のスカートをふくらはぎから腰までめくりあげた。少女が自転車を止めたので私は荷台からおり、彼女は自転車を無造作《むぞうさ》に置いて遊歩道に入っていった。ひとかたまりの雑草が舗石《ほせき》の継《つ》ぎ目から強引に頭をもたげている。少女はそれを引き抜き、空中でト音記号を描きながら波のように漫然《まんぜん》と歩いてゆく。少女はこの沈黙がここちよいにちがいない。私もまた少女といっしょにいてまったく言葉を必要としなかった。自分の内にある性が、屹立《きつりつ》せず水平にひろがってゆく。  遊歩道を抜けると、背高泡立草《せいたかあわだちそう》とすすきに覆われた造成中の宅地がどこまでもつづいていた。少女は背高泡立草のなかにからだを埋めて私のほうを見た。逆光になったシルエット、髪《かみ》のリボンが風にほどかれてはためいている。私は少女を見失わないようにあとを追った。ザッザッ、風がときどき思い出したように波の飛沫《しぶき》に似た音をたててうなっている。  少女は空地の真ん中で足を止めた。顔にかかるリボンを手ではらい、急にまじめな顔つきになった。草の悲鳴に耳を傾けている様子だ。私は少女の息づかいが感じられるほどそばに寄り、リボンをむすびなおしてやった。手をひっこめようとすると、少女は私の背後のなにかをぼんやりと眺めながら私の手首をつかんで口もとにもっていき、がりりと噛んだ。私は驚きと痛みでめまいがした。少女は冷ややかなもやのかかった目で私を嘲《あざけ》るように見て、くすくす笑った。  突然、風がやんだ。先刻までぎらぎらしていた空が急に老けた色になり、上空でさえずりを交わしていた鳥たちがいっせいに啼《な》き声の抑揚《よくよう》を変化させた。少女はふっつりと微笑を消した。ごく近くで工事の音が聞こえたので目をやったが、なにも見えなかった。少女は視線を私のほうへ転じた。私は少なくとも数分間|微動《びどう》だにせず少女に見詰《みつ》められるがままになっていた。  少女が口を開いた。  チチ、キテ、キテ、テキ、チチ、チチ、キテ、イク、ク、ク、ク、ク  トタンに針金をこすりつけたような声だった。  ひるがえって少女は駆け出し、私はあとを追ったが、ふいに雑草のなかにリボンが消え、見失ってしまった。遊歩道の入口に停めた自転車はなかった。のろのろと坂をのぼり、おり、ようやく家の前に戻って来た。  玄関のブザーを押す。家のなかは足音ひとつしない。手を伸ばして扉の把手《とつて》を引いてみる、動かない。勝手口に行き、鍵を差し込む。なにか重い物が内側に置いてあるようで扉を開けることができない。しかたなく裏庭にまわりガラス戸の鍵をひとつひとつたしかめた。頭上からカンカンと金属音が聞こえてきたので二階を見あげると、少女がベランダに立ち、手摺《てすり》を定規《じようぎ》でたたいていた。その激しく不安な響きが私を刻んでゆく。私は身動きもせず、ただひたすらその金属音に耳を傾けていた。  翌日昼食を食べているとき、セメントの袋が配達された。 「何に使うんですかね」父はためらいがちに訊《き》いた。 「決まってるよな、吉春」男のとぼけた微笑はしだいにひろがり口もとに固着《こちやく》した。 「うん、決まってる、プールだよ」 「プールじゃないぞ、吉春、池だよ、大きな錦鯉《にしきごい》をいっぱい飼うんだぞ」 「泳いでもいいんでしょ」 「そうだ、鯉といっしょにな」  父は寒さにすくんだようにぶるっとからだをふるわせた。  ミートソーススパゲティをほとんど残した少女は灰皿のとなりに置いてあったドロップの缶に手を伸ばした。 「かおる、だめよ、ちゃんと食べなさい」  少女は母親の言葉を無視して缶を逆さにふってドロップをてのひらに出し、口のなかに放り込んで大きくひと噛みした。そして歯の裏にくっついたドロップを舌でなめた。  食後、男は庭の穴にセメントを流し込む作業をはじめた。家のなかは照りつける日光のせいで熱気が充満している。私のわきのしたには汗の染みができ、Tシャツは背中に貼りついていた。父は自分自身を励ますように、「雨そろそろふるんじゃないのか、何日もふってないからね」といったが、手にした煙草がふるえていた。  雨がふったのはそれから五日後だった。  雨がぱらぱら音をたてて縁側のひさしを打っているのに気づくと、父は風呂|掃除《そうじ》を中断して傘もささずに雑草だらけの庭に飛び出した。私は二階の自分の部屋に行き、考えをまとめようと机に座った。なぜ私はこの家にいつづけるのか、どんな決着を望んでいるのだろうか。立ちあがって窓から庭を見おろすと、父は縮んでしまったように見える。すでに乾ききっていたセメントの池に雨水がみるみるたまっていった。雨はいつしか肉感的などしゃぶりになっていた。雨に打たれるままになっている父を女が部屋に引き入れようとした。父は何度も手でふりはらっていたが、女に抱きかかえられて部屋のなかに消えた。聴こえるのは、家をたたく雨の音だけだ。  驟雨《しゆうう》は小一時間であがった。湯気がたつ雑草のなかで蟋蟀《こおろぎ》がしきりに鳴いている。女は買い物に、父は店に出かけた。 「かおる、吉春、雨あがったぞ、水着に着換えて泳げ」  男はポリバケツを持って風呂場と池のあいだを何度も往復した。  少年は白いパンツで足から池に飛び込み、水しぶきをあげた。少女は父が私と妹のために用意した水着を着て池の縁《ふち》にべったりと腰をおろして爪先で水面をたたいている。水着は少女のからだにぴったりだった。男が父の海パンを穿いて庭におりた。少女のとなりに座って耳もとでなにかささやき、大口をあけて笑った。男がわき腹をくすぐっても少女はなされるがままに水面に頭をたれている。少年が水をかけても少女は微動《びどう》だにしない。  そのとき玄関のチャイムが鳴った。  妹だった。昨夜電話をかけてこの一家のことを説明すると、妹は「なんでもっと早くいわなかったの」と声を荒げ、「とにかく明日行くから」といって電話を切ったのだった。  妹はあからさまに不快な表情を男に投げつけ、あいさつひとつしないで二階にあがった。男が「だれ」と訊《き》くのと、私が「妹です」というのはほぼ同時だった。  二階の私の部屋に入った途端、妹の目が厳しく私をとらえた。 「どうかしちゃったんじゃないの、お父さん。どうして追い出さないの。お姉ちゃんもおかしいよ」妹の声は視線同様厳しかった。「あたしが追い出せばいいっていうの? なんだっていやなことはあたしに押しつけるのよね」 「そんなんじゃない、そうじゃなくて、」私の声は泡のように口にまとわりついて、とても妹には届きそうもない。 「この家があいつらに乗っとられてもかまわないなら、どうして電話してきたのよ!」  一秒、一秒、机の上の目覚し時計が異様に大きい音をたてている。 「あのひとたちお金|一銭《いつせん》も持ってないの。だから追い出せないのよ」私は声を殺していった。 「じゃ、ずっとこの家にいるってわけ? こんな話聞いたことない」妹が額にたれた髪の毛をはらいのけると、レモン色のタンクトップから剃《そ》りあげられたわきのしたが見えた。瞬間映画館で観た妹の貧弱な裸体が蘇《よみがえ》った。 「映画観たよ」そういうと妹は小刻みに舌打ちして机の上に座り、脚をぶらぶらさせた。「ほっとけないからあたしに電話かけたんでしょ」 「追い出したとしてよ、お父さんにいっしょに棲もうっていわれたら、どうするわけ?」  妹の怒りは急速にしぼんでいった。妹も男と暮らしているのだろうか。妹は窓の外に視線を逃がして、父の声色を使ったかのようなしゃがれた高音でいった。 「台風がくるんだってよ、テレビでいってた」  ライトアップされた池に何匹もの鯉が跳《は》ねあがる光景が頭に浮かんだ。 「あたし、夜までには帰らなくっちゃ」妹は鼻の下に噴《ふ》き出た一連の汗の玉を手の甲でぬぐった。 「じゃあなんのためにきたの、お父さんと話すためじゃなかったの」  妹はそれには答えず撫でるような視線をよこした。 「お姉ちゃんはずっとここで暮らすつもりなの?」  私は窓を開けた。少女が池の縁《ふち》に立ち、両手をまだほっそりした臀部《でんぶ》にあてがってこちらを見あげていた。男は少年の頭を池の水につっこんだりあげたりしていた。ふざけているのか折檻《せつかん》しているのかわからない。  階下におりると妹は縁側に立ち、好奇心に満ちた眼差しを水浴びをしている彼らに向けた。怒りと好奇心のどちらが強いのだろうと思いながら私はサンダルを履いて縁側に腰をおろした。暑さにとり囲まれて息をするのもやっとだった。少女は庭の雑草のなかにひそむ虫たちの絶えまない鳴き声に耳を澄ましている。水にもぐったのか、濡れていてもなお茶色く見える髪が頬や首にへばりついている。  と、突然少女は立ちあがってくさむらにしゃがみ、両手をお椀《わん》の形にして草の上にかぶせた。なにか虫でもつかまえたのか。隣家の木槿《むくげ》が少女のすらりとした首の近くの肩を葉の影でくすぐっている。  少女は側に寄ってきて自分のてのひらのものを私のてのひらに移し、家のなかに入っていった。てのひらのなかで蝗《いなご》か蟋蟀《こおろぎ》らしいものが、跳《は》ねている。金魚鉢を手に戻ってきた少女は私と妹があっと叫ぶまもなく縁側から鉢の水を棄てた。金魚は泥まみれになってのたうちまわっていたが、すぐえらをぴくぴくさせて静かになった。少女が空になった金魚鉢を差し出したので、私はてのひらのものをそのなかに放した。蟋蟀《こおろぎ》だった。地面の金魚はあっけなく動きを止めた。  妹は少女をしげしげと眺めて値踏《ねぶ》みしたあと吐き棄《す》てるようにいった。 「お姉ちゃんそっくり」  汗がゆっくりとわき腹を流れ落ちていくのがわかる。同時にしびれが爪先から這いのぼってくるのを感じた。 「お姉ちゃん小さいころ、金魚を流しに棄てて蟋蟀いれたじゃない」  少女は金魚鉢の上に新聞紙をかぶせた。蟋蟀が外へ出ようとして狂ったようにガラスに頭を打ちつけている。少女は発作でも起こしたのか、とめどなく笑いの泡を口から吐いた。  夕闇が深まって、なまめかしい夜の闇に変わった。今やこの家を占拠《せんきよ》してしまったホームレスの家族たちは池のまわりにしゃがみこみ、女がスーパーで買ってきた花火につぎつぎと火をつけている。招《まね》かれざる客のように離れて立ったまま父と私は爆《は》ぜる火が池の面に映るのを見ていた。強い風で火種が落ちてしまう花火もあった。 「羊子はなにかいってたか」父は両手をズボンのポケットに入れてかかとを軸《じく》にしてゆっくりとからだをゆすっている。 「べつに。すぐ帰ったから」  ふと視線を感じて見あげると、近所の二階の窓に灯りがついている家はなかった。私は家族がそろってこの庭の光景を見詰《みつ》めているのではないかと想像して暗い窓をうかがった。となりの庭に顔を向けると、老婆が強い花火に照らされて浮かびあがった。 「フルハウスだな」 「え?」  父は、いやなんでもない、と煙草に火をつけた。鼓膜《こまく》のあたりでブーンというおかしな音がしている。私は固く両手を組み合わせた。手がふるえていたからだ。妹が私からいうようにとしつこく迫った、あの家族ずっと家に置くつもりですかという質問など口に出せるはずがない。  少年が縁側で靴を脱ぎ、二階にあがっていった。  花火は尽《つ》きた。沈黙がこの庭どころかこの街ぜんたいをもつつみこんでしまったようだ。となりの庭に目をやると、老婆が口をすぼめてなにかつぶやいている。 「ミセハマダアイテル」  かろうじて聞き取れたが、この庭の沈黙はびくともしない。  しばらくするとはるか遠方からなにかの音が風に乗って聞こえてきた。最初はなんの音なのかわからなかったが、しだいに近づいてくるその音は消防車のサイレンだった。 「火事かな」 「すごい近くじゃない」  父と私は耳を澄ました。いつのまにか庭におりてきた少年は気配をうかがう兎のように聞き耳をたてて首を伸ばした。  サイレンの音はさらに近づいてくる。 「となりじゃないの?」 「となりだ」  玄関のポーチに出ると家の前には消防車が停まり、後方から二台の消防車が走ってきた。あっという間に数十人のひと垣ができた。  突然銀色の服を着た消防士たちが玄関の扉をぱたんと開けて土足で家のなかに踏みこんでいった。あっけにとられて急いで庭に戻ると、消防士たちは部屋を見まわしている。胸に防煙マスクを下げ、腰にはロープと黄色の懐中電灯をつけ、手に長い棒をもっている。ひとりの消防士が二階に駆けあがった。 「火もとはどこだ! この家のひとはあんたたちか!」いきなり庭に首を突き出した消防士が怒鳴った。 「え」父はのどを詰まらせた。 「家が燃えているからきてくださいと119番があったんだ」 「家は燃えていません」父はきっぱりといった。 「お宅の住所をいったよ」  じりじりとあとずさりながら玄関のほうへ逃げようとした少年の腕を男がつかみ、ひねりあげた。 「吉春、おまえが電話したのか」  男は何度も平手打ちを食らわしてから背負い投げで地面にたたきつけさらに蹴《け》りあげた。少年は激しく泣き出した。  消防士たちは顔を見合わせた。そのなかのひとりが庭におりてきて、少年の尻を蹴りつづけている男を押さえた。 「あなたがお父さんだね。今夜中に署にきて始末書《しまつしよ》を書いてもらう、いいね。ぼうや、もう二度とやっちゃだめだよ」 「消防署は?」 「自分で調べろ」消防士は一喝《いつかつ》した。  ホームレスの夫婦は何度も頭を下げ、消防士たちは去って行った。 「なぜこんなことをした! え? おい! いってみろ! いえ!」男はしゃくりあげている少年をもう一度思いきり蹴飛《けと》ばした。少年はくっという気味の悪い声をあげて伸びてしまった。少女の顔を見ると、あの押し入れから私を見詰《みつ》めたときのような光芒《こうぼう》を放つ目で父親をとらえていた。そして音もたてずに部屋のなかに入った。 「嘘にしたって、こんな嘘をなぜつくんだ」男の声はどす黒く染まっている。  少女はテーブルの上のマッチをつかんで擦《す》り、黄色い薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》のような炎を手にしてかまえた。そしてひらいたてのひらを炎にかざし、カーテンに近づいた。  指を焦がすマッチを投げ棄て、少女はカーテンに火を放った。炎に照らし出された少女の顔が急速におとなの顔になり、擬態《ぎたい》するかのように赤く染まっていった。少女は大きく息を吸い込んだ。  少女が机の上の新聞、台所のゴミ箱に火をつけたとき、はじめてみんなが気づいた。「かおる!」女が悲鳴をあげて部屋にあがり、男も転がるようにあとを追った。女はポリバケツに水を入れ、男はシャツを脱いで火をばたばたとたたいた。部屋に入ろうとすると、父が首をふって私を止めた。 「保険」父は口のすみで笑っていた。笑いの断片。ばらばらになった笑い。父は燃えあがる炎を眺めながら、内側の髄《ずい》が空洞《くうどう》になっていても倒れない樹木のように突っ立っていた。  父と私と少女は半狂乱で消化する夫婦をじっと眺めていた。  やがて火は消えた。途端に焦げた化学|繊維《せんい》の臭気《しゆうき》が部屋を満たした。 「かおる、おまえ!」男は少女の頬を撲《ぶ》つために右腕を大きく引いた。その瞬間少女の視線が男の視線に食い込んだ。そして少女は両方のこぶしを目に押しあてた。 「だから、これで、うそじゃない!」  少女の叫び声が私の耳を貫《つらぬ》いた。私には耳慣れたなつかしい響きだった。  少女は外へ飛び出した。自転車を引き摺《ず》る音が聞こえた。足がいまにもがくっと折れそうだったが、私は玄関に向かって走った。扉を開け、はだしで車庫に駆けこみ、自転車にまたがって力いっぱいペダルを踏み、通りへ漕《こ》ぎ出した。腰を浮かせて、もはや完全に見知らぬ街となった新興住宅地を突っ切って、突き抜けた。真正面からの風がブレーキになって坂をのぼっているようだった。私は汗だくになってペダルを漕いだ。両脚の筋肉ががちがちに硬《かた》くなってきたが、手は十字架の釘《くぎ》に貫かれたようにハンドルから離れない。いつのまにかあたりは造成地ばかりで一軒の家もなくなっていた。風は強さを増し、私が少女に追いつくのをさまたげているようだ。それでも少女と私の距離は縮んでいった。もう少し、もう少し、私は全体重をペダルにかける。少女の自転車が右へ折れようとして傾《かし》ぐ。私は軽くハンドルブレーキを握って方向転換した。大通りには突風《とつぷう》が吹き荒《すさ》んでいる。骨組みだけのビルを覆い隠しているビニールシートがぱたぱたと帆《ほ》のようにはためいている。凄《すご》みを帯びた風の哄笑《こうしよう》ががらんとした街のすみずみまで響きわたる。少女の自転車は燃えるような光を放って闇のなかを疾走《しつそう》してゆく。もうあなたほど早く走れない。ペダルを漕げない、許して、私が放火したっていうのは、嘘、あなたほど強くはなれない、たぶん嘘だったの、お願い、待って、だれもあなたを撲《ぶ》たないから、おとなになれば撲《ぶ》たれないですむの、ねぇ、せめてその自転車と取り換えて、その自転車は私のものなんだから。少女は車道を突っ切ってしまった。この自転車、私だって足を届かせるのはせいいっぱい、きついの、自転車を返して。悲鳴がおさえようもなくのどからほとばしったが、風がその声をさらって吹き飛ばしてしまった。信号は変わり、大型トラックやショベルカーが轟音《ごうおん》をたてて通り過ぎた。私は声のかたまりを飲みこみ、自転車ごと倒れた。  立ちあがる力がなかった。力をふりしぼって顔をあげると、私の目のなかで夜が指紋のように渦巻いて躍《おど》った。 [#改ページ]    もやし  光はない。息が詰まる暑さとほこりの臭気《しゆうき》だけが虚《うつ》ろに立ちこめている。静かに、ほかのものから切り離されて、豆は水と闇《やみ》を吸って柔《やわ》らかくなってゆき、すべてのエネルギーを自らに注ぎこんでいる。はじめに根が出る。根もとはわずかに紫がかっているが、先端は露《つゆ》のように透《す》き通った白。根は水を求めて伸びる。豆は沈黙を破ったが、同時に沈黙を守ろうとしている。豆の表面はしだいに黒ずみ、皺《しわ》が寄り、やがて裂《さ》ける。蛇《へび》の脱皮《だつぴ》のように表皮《ひようひ》を脱いでゆく。そして黄色い豆はゆっくりと頭をもたげる。九筋に分かれた細い根は、まだ発芽《はつが》していないものの、水を奪うために、あるいは引き抜かれることを警戒《けいかい》して四方に伸びてゆく。豆は起きあがり、光を捜《さが》して茎《くき》を伸ばす。  光はない。茎はさらに伸びて、豆の上に帽子《ぼうし》のようにひっかかっていた表皮が、ふるい落とされる。音はないが、すべてを聞き洩《も》らすまいと耳を傾ける。豆のまんなかの筋《すじ》は裂《さ》け目となり、深くなってゆく。豆はふたつに裂《さ》け、双葉《ふたば》となる。茎は光を求めてさらに伸びるが、光はない。根は水を求めてさらに分かれるが、水は干涸《ひから》びている。双葉《ふたば》は左右に広がり、皺《しわ》んだ黄色い本葉《ほんば》をのぞかせる。葉の重さに堪《た》えかねて、茎は斜《なな》めに傾《かし》いでゆく。  痛い、猫に噛まれて飛び起きた。ももに手をやってみたが痕跡《こんせき》はない。しかしももにはしびれるような痛みが残っている。何時だろう。起きようかどうしようか迷いながら、まさか夢ではないだろうと、男のからだに左手を伸ばした。肩、胸、へそ、下腹部、異常なほど汗をかいている。私がどんな暑い夜でもクーラーをつけて眠ることができないのは、冷凍《れいとう》マグロのように霜《しも》をつけた屍体《したい》のイメージがまぶたにちらつくからだ。男の目を醒まさないよう肘《ひじ》でからだを支え起こし、電気スタンドのわきに置いてある灰皿をたぐり寄せて、煙草に火をつけた。  男は喫煙《きつえん》の経験がない。私が煙草を手にすると、ほんとうにからだによくないよ、禁煙したほうがいいんだけどな、とつぶやいてマッチを擦《す》る。仕事のときはそうでもないのに、プライベートでは気弱に口ごもったものいいをする。  七月の朝の光が男の皮膚《ひふ》の青白さを強調している。魅力《みりよく》のないベニヤのような顔、目を閉じていても、怖じけづき途方《とほう》に暮れている表情がほほのあたりにただよっている。肩のほくろを指で押すと、蚊《か》か蠅《はえ》でもはらっているつもりなのか私の手を打ち、枕にしがみついて背を丸めた。背中一面に噴《ふ》き出している汗は玉になって流れ、すでにぐっしょり濡《ぬ》れているトランクスのゴムのところにたまっている。男は罠《わな》にかかった獣《けもの》じみたうなり声をあげて寝|返《がえ》りを打ち、あおむけになった。私はトランクスを少しずりおろし、男の下腹部にある疵《きず》を確認した。  二年前、なんの仕事のあとだったかは忘れたが、編集者やスタッフと飲んでいたときのことだ。広瀬は宦官《かんがん》だから、とカメラマンの坂口がいうと、皆ゆるんだ笑い声をあげた。私は坂口のコーディネーターとして、モデルや撮影場所の選定で走りまわる男の仕事ぶりをからかったのだと思って場の雰囲気に合わせた。男は何度も同じ冗談を聞かされているのか無表情で盃《さかずき》を口に運んだ。坂口たちは男を性的不能者だと本気で誤解《ごかい》していたのかもしれない。気をつけて見ていると、男は彼らにそう思わせる態度《たいど》をとっている。一度坂口が女優のヌード写真を撮っているスタジオに顔を出したことがあるのだが、男は全裸《ぜんら》の女優に性的好奇心のかけらもないように接《せつ》し、女優のほうもなんの屈託《くつたく》もなく会話していた。しばらくして男が自分の事務所を持ち、頼まれれば坂口の仕事も手伝うが、本業は雑誌や書籍のレイアウターだということを知った。それから半年ほど経《た》って、男と組んでやる仕事が増えていった。  何度目かにホテルに行ったとき、私はその疵《きず》に気づき、指を伸ばした。 「盲腸《もうちよう》?」  男はわきにおろしていた手を胸の上に組み合わせた。 「性転換のあと」  私の指は疵をなぞりつづけた。 「生まれつき左側の睾丸《こうがん》がひっこんでたんだ。小さいころ、友だちと風呂に行くと、片方しかタマがないっていじめられたよ。お袋に病院に連れて行かれて、子どもをつくれないかもしれないからと、中学一年の夏休みに手術したんだ」  私は関心なさそうにあいづちを打ったが、頭のなかではしんなりとした小さな睾丸を思い描いた。 「睾丸が、この疵のところまであがってたんだ。腹を切って、睾丸を袋のなかにおろして、上に戻らないように袋をひろげて内ももに縫《ぬ》いつけた。一ヵ月後に抜糸《ばつし》して普通に歩けるようになった。宦官から男になったんだ。性転換だろ?」  不様《ぶざま》な姿で病院のベッドに横たわっている少年。そのとき負った疵は時間が止まったまま癒《い》えることはない。私は頭のなかで少年の目に映る病室をゆっくりと線描《せんびよう》していった。 「退院してからも、もとに戻らないように、正常に機能するようにってことだろう、週に一度病院に行って男性ホルモンを注射してもらった。でももともと女性ホルモンが強いんだろうな、からだもぷよぷよしてるし、髪だってこの歳《とし》で白髪《しらが》一本もない。だから子どもができないのはぼくのせいだと思ってたんだけど、清野《せいの》さんのほうに問題があった」  唐突《とうとつ》に妻が登場し、話が急カーブした。男は妻を旧姓で呼ぶ。結婚しても妻が自分を、広瀬くん、と呼ぶのでそうするしかなかったと男はひとさし指で疵を撫でてから上目づかいで私を見た。私は話についていくためにからだを離して、身がまえた。男が妻の話をすること自体はいやではない。ただし自分がその話に登場しないで済むならばだ。 「問題って?」  黙ったままなので訊いた。 「卵管狭窄《らんかんきようさく》」  男の目はとろんとしていて放って置けばいまにも溶けてしまいそうだ。 「どういうんだろうな、ぼくたちが夫婦になるなんて。卵が卵管を通過できなくて子宮におりてこないんだ。彼女は排卵日《はいらんび》が近づくと医者に行って、卵管をひろげて卵を通りやすくする処置をして帰ってきた。ぼくはそれまで禁欲《きんよく》していて、その日から懸命《けんめい》に射精《しやせい》するってわけだ。子どもはできなかった。清野さんは十年はあきらめなかった。五年前に医者から、そろそろ子どもがいない人生も考えないとっていわれたんだ」  私は起きあがり、流しの下の冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターをとり出した。河合が残していったショッキングピンクの目覚し時計、派手なピンクの花柄のカーテンといっしょに買い換えなければ、と思う。この部屋は河合から又借《またが》りしているのだ。彼女は大手新聞社の社会部の記者だった。新聞社が新しく参入した文芸誌に異動《いどう》させられ、一年ぐらいはあからさまに不平を口にしていたが、いまでは編集の仕事に満足しきっている。ほかの編集者に聞くと酒場では私の悪口をいっているらしい。だが面と向かうとそんな態度は微塵《みじん》も見せず、そこどころか同じ年齢だというのに保護者《ほごしや》然としてなにかと世話を焼きたがる。私が雑誌の編集者と同棲《どうせい》していたマンションを出ようとしていたころ、彼女はつきあっていた同僚の部屋に入《い》り浸《びた》りになっていて、家賃《やちん》を肩代わりするだけの条件で貸してくれたのだ。模様替えをしたこの部屋に河合が訪《たず》ねてきたら、おそらく不愉快になるだろう。それを考えると彼女が置いていったものを簡単《かんたん》には棄《す》てられない。  目覚しは男が事務所入りするために十時にセットしてある。事務所のスタッフが出社するのは十一時だ。時間もないが、こんな狭い部屋では男と向かい合って食事をする気になれない。それになにかこしらえようと思っても炊飯器《すいはんき》どころかトースターひとつ置いていない。私は壁に寄りかかって、いびきをかいて眠っている男の顔を眺めながらミネラルウォーターを飲んだ。  この男と出逢ってからというもの、私はまるで砂場で砂を掘る幼児と同じような気がする。幼児はスコップで穴を掘る。母親にうながされてなのか、自分の意志なのか、ほかの幼児たちを模倣《もほう》したのか、そんなことはもはやどうでもいい。幼児はただ穴を掘る。砂をスコップですくい、棄てる。その単調な作業をつづけると、やがてくぼみができる。さらに砂をかき出すと、ぽっかりと穴ができ、幼児がのぞきこんでもそこにはなにもない。母親に抱き起こされて砂場を離れ、家へ帰る。幼児の意識からも穴は消える。しかし明日が晴れならば、幼児は穴を掘る。  私が男と出逢ったのは出版社の応接室だった。 〈フローレンス〉の副編集長の杉本から特集十二ページのイラストを依頼され、レイアウターと打合せするようにいわれた。杉本は先に着いた私を部屋に案内すると、ほかの仕事で同席できないといい、広瀬は才能はないけど重宝《ちようほう》なヤツでね、へんなヤツだよ、へんな、と半端《はんぱ》な微笑を残して部屋をあとにした。数十万も部数が出ている雑誌の十二ページすべてをまかされたのははじめてだった。若い作家が童話を書き、私がイラストをつける企画で、退屈している女優とどこにも行けない青年が、眠っているあいだに目だけで旅をし、目と目が出逢《であ》い、恋をする物語だった。空を飛び旅をする、ふたつの目。男は私が出すアイデアにことごとく首肯《しゆこう》し、文章をイラストの添え物にしてしまった。私は打合せのあいだ中、この男は無能というより投げやりに仕事をしているのではないかといぶかった。最後に男が、おもしろくなりそうですね、とつぶやいたとき、はめられたのかもしれないとかっとしたほどだ。私はエレベーターのなかで意欲的にプレゼンテーションした仕事をキャンセルされたときと同じ気分を味わった。すべてを受容することと、拒絶《きよぜつ》することはどこがちがうのか。しかし私はこの仕事がきっかけで食べてゆける自信を持つことができた。  男は胸の近くのシーツのはしを命綱《いのちづな》のようにしっかりつかんでいる。私が横たわる気配を無意識でとらえたのだろうか、片方の手を伸ばしてきたが、追いはらおうとしているのか、引き寄せようとしているのかわからない。  電話が鳴る。とろうかどうしようか迷い、とらないことに決めた。執拗《しつよう》に鳴りつづける。仕事のはずはない、編集者が午前中に仕事をすることはめったにないからだ。だれかが死んだのかも、不吉な考えが浮かび、受話器をとった。 「いいこと教えてあげる」  甘ったるい声。 「ママ?」 「マニキュアしてるでしょ」 「え? どうしたのよ、こんな時間に」  目を醒《さ》ましたらしい男は不安げな表情で聞き耳をたてている。 「わたしはずっと起きてるの。一睡《いつすい》もしてないのよ。四時二十分にテレビが、12チャンネルが終わってからいままで、わたしなにしてたと思う? 今日のテレ・コンワールドの商品をノートに整理してたの。あなたが欲しがりそうな商品もちゃんとメモしてあるわよ。いまのあなたの爪を十倍美しく変身させるの。どんな爪のトラブルも解消して、爪の自然な美しさをひきだしてくれるネイルケア・システム。クリスタルバーが四本ついて、」 「ちょっと待って下さい」どなたですか、と訊こうとしたら、突然オクターブあがった女の声に遮《さえぎ》られた。母ではない。 「いい? 書きとめて、ナチュラルグロー、商品名はナチュラルグロー、書いた? スーパーシャビークロスが二枚ついて四千八百円。電話番号いうわよ。一回しかいわないからよく聞いて、0120−444−799、書いた? まちがえたらアウトだから、ちょっといってみて」  私は怒りの矛先《ほこさき》を男に向け、イタズラデンワ、とつねるようにいった。 「いまなんていったの。もう一回いってみて」  今度は妙によどんだ声。まるでさまざまな声音《こわね》を売り込み用のテープに吹き込む声優だ。 「どちらさまですか」私は受話器を握りしめた。  鼻から息が出入りする音が聞こえる。電話を切らないでいる自分にいらだって、左手で机のひきだしを開けて綿棒《めんぼう》をとり出し、耳の奥をこすった。私と電話の向こうの女はたがいの沈黙で引力のように引きつけ合っている。そして同時に考えているのは、しゃべったほうが負けるということだ。私は受話器を素早く持ち替えて、右耳に綿棒を入れた。引力のバランスが崩れた。 「いつも主人がお世話になっております。さきほどのナチュラルグローは、わたしからプレゼントいたします。ほんとうに使い勝手《がつて》がよろしいんですのよ。二、三日ご使用になられますと、桜の花びらみたいな爪になります。そうなるともう爪切りは要《い》りませんし、マニキュアを塗る必要もございません。あれやこれやを合わせて、年間で二万円もお得になりますわよ。申しおくれましたが、わたし広瀬の妻の容子《ようこ》でございます」  くぐもった声が火ぶくれのように膨れあがった。私はひきだしの奥からクレパスをとり出し、シーツに、おくさん、と書いた。マットレスから跳ね起きて正座した男は、口もとをぴくぴくひきつらせ、聞こえない妻の声に耳をそばだてている。 「つかい古しでよろしかったら、ミラクルブレードも差しあげましょうか。へんな名前ですけれど、万能包丁《ばんのうぼうちよう》のことなんですのよ。一万三千五百円でした。掛値《かけね》なしでコカ・コーラの缶が切れますの。ほんとうにびっくりしましたわ。わたしやってみたんですよ、そりゃあ右手に全体重をかけないとだめでしたけれど。テレビのようにできるわけありませんもの。容子、なんだかとっても愉快《ゆかい》。でもトマトなんかはね、刃をあてるともうスライスされてるの、切るんじゃないの、あてるのよ。このこと、容子、保証《ほしよう》する」 「どういったご用件ですか。ご主人に替わりましょうか」私は慎重に声を出した。 「いいんですのよ、わたしあなたとお話ししたいとずっと思ってましたから、一年と五ヵ月ものあいだずっと。だから容子、うれしいの、いま、幸せなの」  汗があごの下から乳房へ、そして下腹部へと流れ落ちる。私は汗で湿った下着を右手でおろした。男は許可を求めて、何度もクーラーに目をやっては、私の顔を見る。 「あなた気をつけないとだめ、業界でどんなうわさがひろまっているかご存知《ぞんじ》ないでしょう。ほら、あなたが主人のまえにおつきあいなさってたフローレンスの杉本さん、とってもうらんでらして、あなたのなさったひどいことをささやいてまわってるんですって、耳もとでよ。つぶしてやるっておっしゃってるそうよ。杉本さんの叔父さまは日本企画の副社長でしょう」  攻撃《こうげき》なのか、忠告《ちゆうこく》なのか、私の耳の狭い虚空に吐き出されるひとり言のようにも聞こえる声が鼓膜《こまく》周辺で振動《しんどう》している。 「聞いてらっしゃるの」  妻は私の鼓膜を一撃《いちげき》した。 「最近、主人はあなたとごいっしょの仕事が増えてるでしょう。ほかの仕事を断って、あなた向きの仕事の営業に社員まで使ってるのよ。もしあなたが干《ほ》されたらとも倒れになるんじゃないかって心配してるの。評判よ、仕事は評判で持ってるの。そりゃあなたはからだを張って仕事をとってるんでしょうけど。杉本さんはね、あなたのはだかのポラロイドを持ってらっしゃるんですってね」  受話器をマットの上に放り投げると、男はパスボールをした捕手《ほしゆ》のようにあわてて受話器をひろい、充電台に戻した。自分の足がなにをしようとしているか気づかないうちに私は充電台を蹴飛《けと》ばしていた。受話器は小さく不満そうな音をたてて壁に打《ぶ》ち当たった。ツーツーという音を聞きながら、蒸し暑く昏《くら》くよどんだ空気をはらいのけるために私はまばたきをくりかえした。  そういえば仕事が軌道《きどう》に乗りはじめたころ、河合に誘われて信州の山奥の温泉宿に行ったことがある。屋外《おくがい》に四畳半ほどのひろさの蒸し風呂の小屋があった。木戸を開けた途端、木の腐敗臭《ふはいしゆう》と熱気が顔に貼りつき、閉めようとして戸に手をかけたそのとき、河合に背中を突き飛ばされ、私は閉じこめられた。屋根と梁《はり》のすきまから差し込むわずかな光に目が馴《な》れ、気配を感じてふりかえると、奥の壁にもたれかかって膝をかかえている老人が小さな目で私の出方をうかがっていた。  まばたきを止めて向き直った私の顔から、男はあわてて視線を逸《そ》らした。 「お風呂」  浴室の扉を開け、服を脱ぎ、栓《せん》をひねる。私は浴槽のなかでからだをふたつ折りにして自分の膝《ひざ》を見詰め、湯がたまるのを待った。  あのとき私は声を張りあげ、必死になって木戸をたたいたが、わめけばわめくほど彼女はおもしろがって開けてくれようとはしなかった。たしか老人がなにかをつぶやいた、なにかを。  浴室に入ってきた男はトイレの蓋《ふた》に座って私の表情を盗み見ている。すっかり痩《や》せ衰《おとろ》え、どぶのにおいをただよわせ、耳をたらしてしょんぼりしながらもなにか新しいにおいを嗅《か》ぎつけて鼻を動かしている犬、ふと男がのどの奥で鳴き声をあげたような気がした。 「奥さんは気づいたってなんとも思わないっていったたけど、ちがうみたいね」  私はところどころオレンジ色のかびがついたシャワーカーテンを力まかせに引いた。 「なんていってた? 清野さんは」 「どうしてあんなふうに慇懃《いんぎん》なしゃべりかたするんだろう。コカ・コーラの缶が切れますの、だって」  私は右手を湯の表面に当て、その手を前後に動かして波をたてた。 「そうかなぁ、いつもはむしろ男っぽいさっぱりしたものいいをするんだけどな」 「わたしのこと、編集者と寝て仕事をもらってるっていったでしょう。杉本のことも話したの?」  胸までたまった湯が、私のいらだちの度数を計ったように急に熱くなった。 「もしかしたらそんな女とつきあうはずないと思わせるために、いったかもしれない。ほかにはなにを?」  私は栓をひねって湯を止め、せっけんを顔と首にこすりつけた。 「テレ・コンワールドってなに」 「テレビショッピング。清野さん、最近異常なくらいテレビで紹介された妙《みよう》な商品を買うんだ。かならず週にふたつぐらいは届くみたいだよ。車なんかないのに、ウォッシュマティックとかいう洗車の道具を買ったりして、それで庭に水を撒《ま》いてるんだ」  男はシャワーカーテンを開けた。湯気で眼鏡のレンズがくもる。 「閉めてよ」  男はいう通りにする。 「なに、入りたいの? シャワーでいいんでしょ、ちょっと待って、もう出るから」  湯を落とし、シャワーの温度を調整しているとふたたびカーテンがひらいた。男ははだかだった。バスタブをまたぎ、さわっていい、と泡だらけの私の腰に腕をまわしてくる。やめてよ、というと両手を乳房にすべらせながらも、あとずさった。やめてっていってるでしょ、私は身をよじって男の顔にシャワーを浴びせた。  クーラーをつけてから浴衣《ゆかた》を着た。あの蒸し風呂の温泉宿から帰るとき、無断でかばんに詰めたのだ。夏のあいだパジャマ代りに使っているのだが、今年ははじめてだった。それにしても蒸し風呂の老人はなんといったのだろう。老人の顔は、去年女流作家の取材旅行のおともで月山《がつさん》に行ったときに見た僧侶のミイラにそっくりだった。あなた、ミイラになれる、作家は唐突に訊《き》いてきた。あなたはなれるんですか、と訊きかえすと、小柄なミイラの視線をたどって私を眺め、またミイラに視線を戻し、ぜったいにいや、と答えた。その女学生まがいの質問と答えを胡乱《うろん》に思ったが、なにかもっと深い意味があるのかもしれないと考え直した。  クーラーが私の背中に冷気を吹きつけている。モーターの音がうるさい。私はリモコンのボタンを押してクーラーを黙らせた。電話が鳴る。すでにYシャツ姿になっていた男は呆《ほう》けた表情で、整髪中の髪を手で押さえたまま浴室から飛び出してきた。 「とったら」  私が目を受話器に投げおろすと、何度も首をふって、子どもが重大な秘密を打ち明けるように両膝をついて顔を寄せた。 「出ない方がいいよ」  眠っているつもりはなかった。時計の音も走り去る車の音も聞こえていた。時計を見ると、一時を過ぎていた。  近所の行きつけの店の日替り定食を食べてから、机に向かった。歯のあいだに鯖《さば》の味噌煮《みそに》の味が残っている。ミネラルウォーターを冷蔵庫からとり出すために立ちあがろうと思ったが、私のからだ、とくに下半身にはまるで力が入らない。あきらめて手首をふって、まだ先が丸くなっていないコンテを選び、画用紙をじっと見詰めた。コンテを紙に落とそうとするたびにひじ、脊椎《せきつい》、斜《なな》めに崩している脚、膝頭《ひざがしら》の骨、体重を移したときのももの動きが気になって集中できない。コンテを押しのけて、妻の声がきりもみしながら紙に突き刺さる。画用紙を丸めてくずかごに棄《す》て、爪先で押し込んだ。新しい画用紙を置くと、底無しの空白、という言葉が浮かんだ。こんなときアメリカ人なら精神分析医に予約を入れてセラピーを受けるだろう。阿川に電話しようと受話器に手を伸ばしたが、講義中かもしれないと考えてやめた。  阿川は当時は美術大学の講師でいまでは助教授になっている。十八歳からの二年間|同棲《どうせい》して別れた。以降性的な関係は持っていないが、年に二、三回は逢《あ》っている。仕事と男以外で私のほうから電話するのは阿川だけだ。  阿川と出逢《であ》ったのはデパートが開設したカルチャーセンターだった。阿川が受け持ったイラストレーションのクラスを受講《じゆこう》したのがきっかけだ。二度目の授業の帰り、阿川の家に泊まり、寝た。そしてカルチャーセンターをやめて週に一、二度個人レッスンを受けるようになった。阿川は、この仕事の向き不向きはなにも描かれていない紙とこころを見詰めつづける苦痛に堪《た》えられるかどうかでしかない、そのうちコンテが勝手に動き出さなきゃ向いてないってことだな、と私にテーマを与えて部屋を出た。  阿川は私の家族、友人、教師、幼稚園から高校までのできごとをなにもかも知りたがった。私の記憶を呼び醒《さ》まそうとする以外は伝記作家のように口をはさまず、ただ聞いていた。二年間で私はすべてを語り尽くし、話すべき過去がなくなってしまったのが理由だとでもいうように、別れた。別れたあとも逢うたびに、その間の出来事をつつみ隠さず話した。私にまとわりつく妻のことを話せば、私がどうすべきか、どんなセラピストよりも的確《てきかく》に教えてくれるだろう。自分デワカッテイルダロウ、阿川の撫でるような声。君ハ男ヲグルットイチジュンシテ最後ニハ僕ノトコロニ帰ッテクル、別れるときの言葉が私のこころに染みこんだ。  底無しの空白、いつまで経《た》っても真っ白なままの画用紙を破り棄《す》て、もう一度新しい画用紙を机の上に置いた。やはり妻が杉本の名を出したことが気になっているのだ。日本企画に渡すポスターのイラストをあとまわしにし、週刊誌の連載を先に描くことにした。コラムニストからファクシミリで送られてきた原稿のテーマは〈耳〉だった。連載四、五回目までは編集者から原稿が送られてきたのだが、締切を過ぎても原稿が書けないコラムニストは、私に直接テーマだけを送ってくるようになった。先週はなにを描いたのだろう、先々週は、思い出せない。私は描こうとしている対象を擬態《ぎたい》させるという手法と、水のなかに浸《つ》けるというふたつの方法しか持っていない。どちらにしようか、耳に似たものを連想してみる、かたつむり、ト音記号、写楽《しやらく》の役者絵を寄せ集めて耳のかたちにすることも考えたが、週刊誌のカットとしてはうるさい。結局水のなかに耳が貝のように眠っている図柄に決めた。描くことが決まりさえすれば小一時間で仕上がるだろう。  ももになにかが這っている感触、ダニか、あわててスカートをまくりあげると、蟻《あり》だった。窓を閉めきっているのにいったいどこから入ってきたのだろう。眼鏡をかけて、床をみる。蟻の行列ができている。昨夜コンビニエンスストアで買って食べた杏仁豆腐《あんにんどうふ》の食べ残しにびっしりと蟻がむらがっている。やはりベランダからだ。ガラス戸の鍵をかけても蟻が入りこめるぐらいのわずかなすきまはあるのだ。ガラス戸を開ける、高架下《こうかした》の騒音《そうおん》に似た油蝉《あぶらぜみ》の声が押し寄せてくる。私は通り過ぎる車、頭のてっぺんに照りつける陽射《ひざ》しを受けながら行き交うひとびとを眺めた。地面はアスファルトで固められ、舗道《ほどう》には一本の街路樹《がいろじゆ》も植え込みもない。近所には公園もない。蝉《せみ》が鳴いているのが不思議だ、そして蟻も。一階の宅配ピザの店から流れてくる溶けたチーズと油のにおいに堪《た》えきれず、戸を閉めた。蟻の巣は河合が残していった一度も水をやっていない種類もわからない枯木《かれき》の植木鉢《うえきばち》のなかにあるのかもしれない。  机のひきだしからとり出したガムテープをはさみで切り、ぺたぺたと蟻の上に押しつけた。蟻はガムテープにくっついて足をよじっている。私はさらにガムテープを切って、つぎつぎに蟻を貼りつけていった。ガラス戸の敷居《しきい》に立って見張っていると蟻は侵入してこない。危機察知能力《ききさつちのうりよく》があるのかと他愛《たあい》もないことを考えながらクズ入れのなかから手探りで捜したプラスチックの杏仁豆腐の蓋《ふた》を容《い》れ物《もの》にかぶせた。するとあわてふためいて動き出す蟻と、ミカンやアンズにしがみついたままの二派に分かれた。しばらくすると蟻はいっせいに蓋《ふた》のほうへあがってきた。方向としてはまちがっていない。わけもなくうれしくなって顔をほころばせている自分に気づいて仕事に戻ろうとしたとき、電話が鳴った。腕の筋肉に緊張が走る。ばかていねいな口調の裏に嘲笑《ちようしよう》と怒りをたっぷりふくんだ妻の声が蘇《よみがえ》った。受話器を取って、相手がしゃべりだすのを待つ。 「どうして黙ってるのよ」  母だった。落胆《らくたん》したのか安堵《あんど》したのか自分でもよくわからない。 「なんか用?」  私の声は不明瞭に沈んでいた。 「なんかあったの? 声暗いわよ。こっちきて仕事したらどう? ママ、お手伝いみたいにやったげるわよ、なんでも」  母よりひとつ年上だという男の妻の顔の輪郭《りんかく》をこころのなかで描きながら、コードレスフォンを耳に当てたまま冷蔵庫を開けた。バター、ケチャップ、マヨネーズ、化粧水しか入っていない。 「また見合いの話でも、どっかからひろってきたの」 「ママの友だちでね、とってもお金持ちがいるの。歌舞伎町《かぶきちよう》にビルをみっつも持ってるのよ。ひとり息子がいて四十になるんだけど独身なの、どう、いい?」母はほっと息をついて短く笑い、機嫌がよいときのはしゃいだ声に戻った。 「なにが」 「今度の金曜日、お見合いしなさい」 「どうしてそんな金持ちで四十になるまで独身だったの」  母は、ぐぅという奇妙な声を出したが、一瞬にして態勢《たいせい》を立て直した。 「ママ、先週|吉祥寺《きちじようじ》のそのおうちに遊びに行ったの。すごいお屋敷よ。水原さんっていってね、彼女はねぇ、もう七十近いんだけど、子どもはふたりいるの。ひとりは今度あんたとお見合いする男。もうひとりは妹でね、ママあんたには隠しごとなんかしたことないわよね、だからいうけど、妹のほうは精神薄弱《せいしんはくじやく》なのよ。その家の奥にある座敷牢《ざしきろう》から外に出たことないの。でね、お兄さんのほうはね、普通に生活できるし、ほんとに普通に見えるのよ。だけどちょっと知恵《ちえ》おくれなの。水原さんのご主人は、彼女の血が悪いって決めつけて、もう二十年以上前に女をこさえて出て行っちゃってるわけ。なんの音?」 「なんでもない。受話器を持つ手を替えただけ」 「まじめに聞きなさいよ。あんたの問題なんだから。それでね、ご主人とその女のあいだにも子どもがいるの、ふたり。でもその子たちはぜんぜん普通なんですって。水原さんはね、自分が生きているうちはいいけど死んだらご主人に家土地を乗っとられて、自分の子どもは施設《しせつ》に入れられちゃうんじゃないかって心配してるのよ。もともと婿養子《むこようし》で、自分から逃げ出したくせに離婚の判押さないんですって。だからあんたが結婚するわけ」  インターフォンが鳴った。 「ちょっと待ってて」インターフォンをとると、「速達です」と耳障りな声が響き、私は解錠ボタンを押した。 「どうしてわたしがその知恵遅れの四十男と結婚しなきゃならないのよ、ママになんの得になるのよ、結婚したらビルのひとつでももらうってわけ」  私は朝からつづいていた怒りの標的《ひようてき》を見つけた。のどのあたりにつかえていた鬱憤《うつぷん》が、心臓のドクッドクッというリズムに乗ってからだ中を駆けめぐる。 「あんた失礼ね。ママのことそんなふうに思ってるの、だったらなかったことにしてもいいのよ」  玄関のブザーが鳴った。 「ちょっと待って、ママ、」切らないでよ、と念を押して玄関の扉を開けた。郵便配達はなにかを調べるような一瞥《いちべつ》を投げてよこした。受けとった茶封筒の差出人は妻だった。私は心臓が二度大きく鼓動するのを聞いてから受話器を耳に当てた。 「とにかくママにもいいたいことあるから、行くよ、いつがいいの」  怒りはどこかに消え、私の声は力を失ってしまった。 「今週の金曜日に決めていいのね? ほんとね、だったらかならず十二時半までにきてちょうだい、すっぽかしたりして、ママ恥かくのはごめんよ。金曜日の朝電話するから、いい、わかった?」  うん、自分でも聞き取れないほど小さな声だった。  封を切らずに棄《す》てようかと思ったが、読まないことでかえって気になり仕事も手につかなくなるのではと観念《かんねん》して封筒にハサミを入れた。 [#ここから1字下げ]  先日はお話しできてうれしく思いました。お約束したナチュラルグローとミラクルブレード、宅配便でお送りしたのですが、住所を書きまちがえてしまい、返送されました。私としてはなんとしても、番地が二番ちがっただけでしたので捜してもらいたかったのですが。この件に関してはこれからヤマト運送に抗議に出向くつもりでおります。  あなたは自殺未遂を何度もなさったかただと主人が申しておりました。お気持ちはよくわかります。私もこころみたことはありますから。でもあなたの場合は、主人を引き止めるためのテクニックなのですよね。そう私が申しましたら、主人は真剣な顔で、そんなことはない、そのときの様子を見ていないからそんなふうにいえるんだ、と申しました。そしてさらに私が噛んでふくめるように、演技なのよ、彼女はたいした役者なのよ、と申しますと、主人は、一度も舞台に立ったことはないはずだ、などとほんとうにわけのわからないことを口走っておりました。  以前あなたがおつきあいなさっていたカメラマンの亀田さんの奥さまは精神を病んで薬を飲んでいらっしゃるとか。主人は、気をつけろよ、もしそうなったら僕は罪の意識にさいなまれて自殺するかもしれない、としんみりした声で申しまして、私を抱きしめたのです。もちろん私はそんな甘い言葉でだまされる女ではこざいません。どうかご心配なさらないでくださいませ。  こんな手紙を他人さまに差しあげることがどんなにつらく恥ずかしいことか、あなたにおわかりになるでしょうか。こうやって書く言葉が私を切り刻むのです。あなたと関係を持ってから、主人はたいせつなものをどんどん失っています。密告《みつこく》することになるかもしれませんが、主人はもう余命《よめい》いくばくもないからだなのです。どうか主人のまえではくれぐれも煙草をお吸いにならないようお願いいたします。こう書けば病名をお察しいただけますよね。  もちろん責任の一端は主人にもあります。申しあげておきますが、私は離婚するつもりは毛頭ございません。どうかこれ以上主人を苦しめることはやめてください。主人はあなたの別れるというひと言を待っているのです。このまま関係をつづけるのなら、結果的に主人を殺すことになってしまいます。 [#ここで字下げ終わり]  カメラマンの名前は亀田ではない。それに男が肺癌《はいがん》であるはずがない。この女は私をからかっているのか、それとも嫉妬《しつと》による妄想《もうそう》で精神に変調をきたしているのだろうか。  男の仕事場の番号を途中まで押し、電話を切った。妻からの手紙は考えないようにしよう、そして頭のなかの整理箱をひっくりかえしてほかの問題を捜そう、しまいこんだ心配ごとなら山ほどあるはずだ。ポスターのイラストはどうしよう、やはり擬態《ぎたい》の手法を使うべきだろうか。なにかひとつほかのだれもやっていない手法を見つけたら、生涯その手法を使いつづけなければならないと教えてくれたのは阿川だ。たとえばカモフラージュ、と深海魚が珊瑚に擬態している絵を描いてみせた。落葉のなかに鹿が二頭いる図柄をイメージしてみる。やはり、阿川に電話してみようと受話器に手をかけたとき、ファクシミリの受信ランプが点滅しはじめた。用紙が出てくる。〈ROCK&ROCK〉の編集部からだ。〈今度はバッチシです。近々飲みましょう〉。〈復活! ブルース〉の特集で、黒人が綿花畑《めんかばたけ》で祈っているミレーの〈晩鐘《ばんしよう》〉のパロディを描いたらボツになり、しかたなくギターを弾く黒人の腕だけを描いて差し替えた、その返事だ。最近自分が納得《なつとく》できたものと編集部がいいというものの差が大きくなっているような気がする。気をつけなければ、しかしなにをどう気をつけるのか、一度書き直しを拒否してみよう、そうすることが先決だ。このイラストだってほんとうは、くりぬかれた片目をのせたてのひらを突き出して笑っている黒人を描きたかったのだが、なんとなく自分でやめてしまったのだ。  妻からの手紙はボツだ。  私は靴に爪先をつっこみ、扉を押した。赤茶けた真夏の夕暮れ、鈍色《にびいろ》の光、強い雨音がしたので、あわてて傘《かさ》立てからビニール傘をつかんだ。手すりに手をかけて空を見あげると、やはり晴れている。まぶたが雨に濡れたようにふるえる。雨音は激しさを増す。地面を打ち、土をはねあげる土砂降りの雨の音。豚肉のにおいが鼻を衝《つ》いた。となりの建物の中華料理店で炒《いた》め物をしているのだと気づいた瞬間、押し寄せてきた疲労《ひろう》にへたりこみそうになり、私は呼吸を整えて部屋に戻った。  杏仁豆腐のプラスチックの蓋《ふた》のふちに蟻が密集し、爪ではじいても動かない。こんなに早く死んでしまうわけがない。蟻はなぜ蓋の先に行けば脱出できることを知っているのだろうか。だが蓋は閉められている。冷凍室からアイスキャンディーを取り出して、かじりながらベランダに向かう。そしてひとくちかじり、植木鉢に吐き出した。一分もしないうちに最初の蟻がやってきた。一匹、二匹──、五分が過ぎるころには十匹以上の蟻がアイスキャンディーをとりかこんでいた。私は呆《ほう》けたように、アイスキャンディーのふちがしだいに溶け、それが蟻で真っ黒になってゆく様を眺めていた。 「その壺、この前沖縄に行ったとき、買ってきたの。ママが死んだら骨壺にしてちょうだい、約束よ」  母は私の顔を見ないでそういうと、桃が盛られた皿をテーブルの上に置いた。そういえばこの家に入ってから一度も視線を合わせていない。 「このあいだ、血を吐いて病院にかつぎこまれたのよ。康友《やすとも》がたまたま帰ってこなければ、ママ、死んでたかも」  弟の康友とももう三年ほど顔を合わせていない。 「C型肝炎ってことは電話で話したでしょ、去年入院するまえに。あら、あんた昨日おそかったの? 顔むくんでるわよ。コーヒー飲む?」 「いい、水飲むから」 「ほんとうに逢うだけだよ」私はバッグからエビアンのペットボトルをとり出した。  なぜここにくる気になったのか、あの速達のせいだとしか思えない。男の妻が母とそっくりだったら、と考えて声をたてて笑った。 「あんた、つきあってるひといるんでしょ」  台所にいる母が声をはずませた。 「べつにいないけど」 「いるわよ、ママにはわかる、でもいいのよ、いたって。結婚してもそのひととつきあえばいいのよ、妻子《さいし》持ちでしょう、その男。わかるの、ママには」  母はコップをテーブルに置いて、そろそろだわねぇ、とテレビの上の時計に視線を泳がせ額に一本心配そうな筋を引き、エプロンをはずしてトイレに入った。居間だけで三つもある時計はどれも数分ずつ狂っている。平均すると十二時五十分というところだろう。  こつこつとノックの音がする。玄関にはインターフォンがあるというのにもう一度強く、ノックの音が私の鼓膜《こまく》を突いた。私は立ちあがることを躊躇《ちゆうちよ》した。激しい勢いで扉はひらいたが、内側からかけてあったチェーンがふたりの侵入をさまたげたようだ。 「高樹《たかぎ》さん、高樹さん!」  棘々しい声にはじかれて、私は玄関に出た。チェーンをはずそうとしたが、焦《あせ》っているせいでフックがひっかかってとれない。扉のすきから老女が爛々《らんらん》とした片目で私を見ている。やっとフックがはずれて、私は扉を開けた。 「あなた、おいくつでしたっけ」  老女はあからさまに私を値踏《ねぶ》みしている。 「二十七です」  私は老女のうしろからおずおずと玄関に入ってきた息子に視線を移した。黄色がかったほほと内側へ血が吸い込まれているような唇、五分刈《ごぶが》りの白髪頭《しらがあたま》、無精髭《ぶしようひげ》、それらすべてはこわばった印象だったが、うしろの影はふるえて見えた。私と息子はずいぶん長い間、おそらく一分以上見詰め合った。初対面ではない気がし、それは確信に近いものだった。私は記憶の糸をたぐって、目の前のなつかしいひとがだれだったか想い出そうとした。私たちは赤面も、目を伏せたりもせずただ鏡をのぞくようにたがいの目を見ていた。トイレから出てきた母が玄関につっ立っている私たちを部屋に招《まね》き入れた。  息子はふくらはぎと背筋をピンと伸ばして老女の耳になにかささやきかけたあと、母の顔すれすれに自分の顔を近づけた。 「このひとはわるいひとのようですね」 「まぁ、座ってくださいよ。水原さん今日はゆっくりでいいんでしょ? 桃でも食べてくださいな」母はむりやりこしらえた笑顔に力をこめた。  老女は目を細めて深々と息を吐き、そして黙りこんだ。陰鬱《いんうつ》な沈黙が魚網《ぎよもう》のように家のそこかしこにただよい、老女はその網にかかったものの重さをたしかめてから口をひらいた。 「ご主人とは何年になりますかねぇ、離婚して」 「もうじき二十年ですね」 「お元気なのかしらねぇ」 「さぁ……」  母は腰をあげ、台所に行ってヤカンに火をかけた。 「コーヒー、紅茶、日本茶、冷たい麦茶もありますけど」 「じゃあお茶いただこうかしら。ゆきとは麦茶をいただかせてもらいましょう。そうそうゆきとといいます。ちゃんとごあいさつなさい」老女は桃の繊維《せんい》が入れ歯にはさまったのか歯を吸った。  ゆきと、どんな字を書くのか聞きそびれたのは、息子がいきなり正座し深々と頭を下げたからだ。 「ゆきとです。ごきげんよう」 「あなたのお名前は、なんといいましたかねぇ」  老女は私に視線を向け、そらさない。 「鏡子《きようこ》です」  ほぼひとりで桃を食べ終えたゆきとは、座ったまま椅子を引きずっていき、窓に額を押しつけた。テーブルに置いてある眼鏡をかけてその方向に視線を向けると、黒い猫が隣家の屋根の上からこちらをうかがっている。私は母がいれてくれた濃すぎる茶を口にした。 「台風がくるって新聞に書いてあったけど、どうなったかしら。午前中は雨がふりそうな空|模様《もよう》だったんだけど、いまカンカン照りでしょ」  母はリモコンでテレビのスイッチを入れ、チャンネルを変えていった。充ち足りた姿態《したい》で静かに横たわっている猫を見ていたゆきとは、名を呼ばれたとでも思ったのか振り向き、画面に目をやった。母と老女は顔を背け合い、テレビの画面を注視《ちゆうし》し、長々と沈黙をつづけている。話の接穂《つぎほ》を捜して焦っているのだろう。チャンネルが止まったのは、ハリウッドで量産されたB級西部劇だった。音量が低いので吹き替えの台詞がよく聞こえない。私はぼんやり画面に目を向け、冷めた茶を飲んだ。湯飲みを置こうとしたそのとき、ゆきとが両のてのひらでまぶたを覆った。老女は我にかえり、ゆきとの手を握って短く叫んだ。 「テレビ消してください」  母は動転《どうてん》してリモコンを捜した。画面ではふたりの男が激しく殴《なぐ》りあっている。ゆきとは逃げ出そうとして玄関に目を向けた。老女はゆきとの手を握ったまま抱きかかえ、もう一度|恫喝《どうかつ》するようにいった。 「早く、消して!」  私はとなりの椅子にあったリモコンを手にとり、テレビを消した。私に向かう老女の表情がはじめて和《なご》んだ。 「ふたりで話があるから、この子を連れて散歩でもしてきてくれるとねぇ」 「鎌倉山に美術館があるし、その先に長谷寺《はせでら》があるから、坂をあがって、わかるでしょ?」母は急に早口になった。  私が立ちあがると、ゆきとは老女の手を離れ、手紙でもたたむようにていねいに四つ折りにしてあった上着に袖《そで》を通した。 「これで好きなもの買いなさいな」玄関の外まで追いかけてきた老女は、蝦蟇口《がまぐち》から五百円玉を一枚とり出してゆきとのズボンのポケットに入れた。  ゆきとはもう外に出てしまったのに、私は指先が汗ばんで靴ひもをなかなかむすべない。横に立っている老女の視線を感じる。ゆっくりと私のスニーカーから膝へ、腹部から胸へとすべりあがってくる老女の視線は熱を帯《お》びていた。  外は酷《ひど》い暑さだ。ゆきとは私の二の腕をしっかりとつかんだ。しかし初対面の男に腕をつかまれているという嫌悪感はまったくない。歩きはじめると指の感触を忘れたくらいだ。私たちは坂道の上の青空を目指して歩いた。坂の途中で、解き放たれている感覚と許されているという意識が同時にこみあげ、ゆきとの顔を見た。私はゆきとにあらがい難く魅《ひ》かれている。この考えを頭のなかで言葉に組み立てているとき、長い髪をばっさりと切られたようにせつなくなった。ゆきとと私は疵《きず》ものなのだ。私はひとと関係をむすびたいと思っても、友情や愛情などなにかを足し合おうとは思わない。たがいの欠け落ちたものをたしかめるだけだ。そして相手の疵にしがみつきたい。疵を捜したことは一度もない。疵のほうが私を見つけ、声をかけてくるのだ。その声はいつもはか細くかすかなものなのだが、ゆきとの声ははっきりと聞き分けられた。  上着を着ているゆきとよりも私のほうが汗をかき呼吸を乱している。しかしゆきとは歩をゆるめることも早めることもせず、上り坂だろうが階段だろうが一定の歩幅《ほはば》と速度《そくど》で歩いた。私は腕を引かれ、従っているだけだった。そしてひと足ごとにここ数ヵ月間|抱《いだ》きつづけていた不安がほどけていった。  すべてを知っているはずの阿川も、私の記憶がないために三歳までの過去は知らない。年子《としご》の弟、康友が生まれるとすぐ私は父の姉に預けられた。姉といっても父とは二十歳も離れていて、母は父の親にちがいないと確信していた。預けられた三年間、どんな育てられかたをしたのか、アルツハイマーになってしまった伯母《おば》に訊《き》くことはできない。その話をしたとき、一歳の子どもが三年間も母親から引き離された──、と阿川は嘆息《たんそく》した。  四歳からの私の写真は何冊ものアルバムのなかにおさめられている。しかし三歳までの写真は文字通り空白だ。アルバムの写真の数は充ち足りた生活に比例するわけでもないだろうに、父と母が離婚した七歳から高校を中退した十六歳までのアルバムは一冊しかない。その空白が私を不安にさせ、脅《おびや》かしつづける。不安が憎悪に変わり、さらに不安に切り替わって増幅《ぞうふく》してゆく。伯母の腕に抱かれた私は、肩ごしの空虚に憎悪の眼差しを向けていたのだろうか。私の記憶のアルバムには憎悪の仮面をかぶった自分の顔ばかりが貼りついている。アルバムに貼られた顔は歳をとらないわけではない。見るたびに年老いてゆくのだ。  ふいに蒸し風呂の老人の声が聞こえてきた。静かにしろ、じっとしていればいい、じっとしていろ。  ゆきとは突然手を離したかと思うと立ち止まり、周囲の風景を引き寄せた。私たちの頭上を雲の影が流れてゆく。風が樹の葉をゆすり、石ころの上に陽だまりが炎のように光った。道のにおい、雑草のにおい。それらは私にあるたしかな予感を抱かせた。ゆきとは私が行ったことのないところに誘ってくれる。ゆきとはまっすぐに私の顔を見た。こころの奥底まで見透かす目だ。その目のなかで私はこぼれた水のようにひろがってゆく。鼓動は心臓を激しく上下させているが、それでいてうとうとと居眠りしている感じだ。背中には午後の脂ぎった太陽が照りつけている。ゆきとは気分でも悪くなったのかてのひらで口を覆ったが、飛び出したのは笑い声だった。私を見て笑っている。 「なんか、おかしい?」  ゆきとの肩は笑いで小刻みにふるえている。そしてそのふるえに呼応《こおう》するように風が強くなり、空はみるみるうちに不機嫌《ふきげん》そうなしかめつらになってしまった。 「わたしのどこがおかしいのか教えて」  と十四、五の小娘めかして憤慨《ふんがい》してみせたが、ゆきとに笑われていることは不愉快ではない。ゆきとの笑い声がからだのすみずみにまで響き渡り、神経がここちよくほどけ、ゆったりとした気分になった。  雨粒がゆきとの肩に落ちたのに気づいた途端に、雨は本ぶりになった。 「帰る?」と訊くと、ゆきとは腰に手をあて、私が腕を組むと、行きと変わらない歩幅で悠然《ゆうぜん》と歩き出した。雨はやみかけたかと思うと、数歩先でさらに激しくなった。  水たまりに足をとられて転んだ。 「だいじょうぶですか」  雨に溶ける声、私の腰を支える力強い腕、光を失って躍《おど》りあがる黒目、ゆきとの唇は私の額を吸った。まぶた、鼻、ほほ、首、また額、私は飼い主に愛撫される猫のように力を抜いた。  目を開けると、ゆきとはもう私を見ていなかった。  玄関のポーチでは傘《かさ》をさして老女が待っていた。ゆきとは急ぎ足になり、傘のなかに入ると、老女の二の腕をしっかりとつかんだ。そうしてほんのすこし頭を傾《かし》げて、もう一度私の目をのぞきこんだ。 「あらやだ、行きちがっちゃったみたいねぇ。高樹さん、一本道だからっていまさっき迎えに行ったんだけどねぇ」  靴のなかには雨水と泥がたまっていた。プールからあがったときのように足が重い。つかれた、というより酔っている状態に近い。老女はゆきとのポケットに手を入れ五百円玉をとり出してから上着を脱がせて、私の顔を見た。 「着換え、なんでもいいですからねぇ」  私は寝室に入り、四年前までときどき泊まりにきていた母の愛人だった男のバスローブをタンスのひきだしからとり出した。老女は私の手からそれを奪って、唇をすぼめ、頭をふりながらゆきとの肩を抱いてトイレのとなりの風呂場に入った。  母のワンピースに着換えてソファにからだを沈めると、途切れ途切れの夢のようにゆきとの唇の感触が蘇《よみがえ》り、全身がうっとりと引きしまった。柱時計が三時を打った。母はどこを捜しているのだろう、雨が一段と激しさを増したようだ。部屋の空気は重くよどんでいる。眠くなり、半びらきになっていた唇を強くむすんだが、眠気はますます強くなりすこしうつらうつらして、風呂場のドアが開く音で目を醒《さ》ました。 「高樹さん、まだ帰ってきてないねぇ。どうしたんでしょう、この嵐《あらし》のなか。でも、あなたねぇ、傘ぐらい買ってくださいよねぇ。ビニール傘なら十円しないでしょ。この子はからだが弱いの。すぐ熱を出すのよ。あなた、お願いしますよねぇ」  老女は姑《しゆうとめ》然とした口調でいってから、窓の外に目をやった。 「それにしても高樹さんおそいわねぇ。あと十分待って帰ってこなかったら、あなた、捜しに行かないといけませんよ。なにかあったのかもしれないからねぇ」  家のなかは山奥の旅館に似た暗い雰囲気がただよっている。バスローブにつつまれたゆきとは絨毯の上にしゃがみこみ、足指をいじっている。老女の話に耳を傾《かたむ》けているのでも無関心をよそおっているのでもない、ただそうしているのだ。私に対する関心はどこかに失せてしまったようだ。老女はときおり小さくうなずきながらガラス窓を蛇行《だこう》する雨の筋を眺めている。私は腰をあげて玄関に出たが、ふたりともふり向きもしなかった。  ポーチから外に出た途端、両手で傘を前に傾けて急ぎ足で帰ってくる母の姿が目に入った。母は顔をあげて私を見た。笑っている顔が泣いているように見えるのは雨のせいだろう。 「どうなのよ」 「なにが」 「あの男のことに決まってるでしょ。占い師がいいっていえば、向こうはあんたと結婚してもいいんですって。どうなの、あんたは」  母の目は濡れている。もしかしたら知恵おくれの中年と私を見合いさせたことを後悔《こうかい》して、ほんとうに涙ぐんでいたのかもしれない。母の声には私が断るのを待っているのではないかと思わせる響きがあった。 「さぁ」 「さぁって?」 「考えてみる」  母は驚きと落胆《らくたん》が入り混じった目で私を見詰めつづけた。  地下鉄神保町の出口のエスカレーターに乗ると、地上から吹き込んできた風が私の麦藁帽子《むぎわらぼうし》を飛ばした。上りエスカレーターを二、三段駆けおりたとき、サラリーマン風の男が帽子をつかんで渡してくれた。  外は夕暮れになっていたが舗道《ほどう》の熱は冷めていなかった。男の事務所のビルは目の前なのだが、私は百メートルほど離れたコンビニエンスストアまで歩き、入口の公衆電話にテレホンカードを差し込んだ。 「チューンアップです」アシスタントが会社の名をいった。 「高樹ですけど、廣瀬さんいらっしゃいますか」  保留の音楽が聞こえているあいだ、シャツの袖で額の汗をぬぐった。 「替わりました」 「今、神保町だけど、六階の鍵開けといて下さい。何か、」 「それでお願いします。じゃあ、よろしく」男は私の言葉を押しのけて電話を切った。  コンビニエンスストアで買い物をして事務所のビルへ行き、駐車場に停めてある車のサイドミラーで前髪をなおしてから玄関に入った。ボタンを押してもエレベーターは最上階で停止したままおりてこない。私はしびれを切らして階段を駆けあがった。  六階の鍵は開いていた。男はいない、机の上にメモが置いてあった。 〈ただいま、打合せ中。二階にいます。みんな帰ったら、内線で呼ぶので出てください。頼みたい仕事があります〉  男は二階を事務所、六階をプライベートルームにしている。徹夜が多いので一時間以上かかる横浜の自宅には月に一、二度帰ればいいほうだ。六階の部屋には衣類、鍋、電子レンジ、生活用品などすべてそろっている。部屋に入った者はだれもが独身男性の部屋だと思い込んで疑わないだろう。  机の上の夕刊に手を伸ばしたとき、電話が鳴った。私は話し中の緑色のランプが点滅するのをぼんやりと眺めていた。コンビニエンスストアで買ったものを思い出し、ミネラルウォーターを一本残して、もう一本とアロエヨーグルトを冷蔵庫、小豆アイスを冷凍室にしまった。そして緩慢《かんまん》な動作でペットボトルのキャップをひねり開けたが、飲むのをやめて、バッグから煙草をとり出した。ライターが見つからない。爪先を向かいの椅子の下側にかけて近くに引き寄せ、両足をその上に載せた。また電話が鳴る。鳴りやむと、この何日か聞こえつづけているあの声がした。  今朝も目を開ける寸前、だいじょうぶですか、耳もとでゆきとの声がした。だいじょうぶですか、土砂降《どしやぶ》りの雨のなかでたった一度だけ聞いた声、空からふってくるような、ギターの内部で響く音色にも似たその声は、私に何度も何度もささやきかけてきた。そしてそのたびに私の胸は泡立《あわだ》ち、充たされた。ゆきとは私の額に接吻《せつぷん》した。まぶたに、ほほに、首に──、数日前のことなのに記憶が微妙に偏《かたよ》ってきている。たしかに鮮明におぼえているのだが、さまざまな感覚が混入《こんにゆう》し幻覚のように感じられる。  男が内線で私を呼んだのは十時近かった。 「いまみんな帰った」  私は机の上のペットボトルを冷蔵庫に入れて二階におりた。  扉を開けると、男は音をたてて鼻をかんでいた。 「ちょっとかぜっぽくて」 「この部屋冷房ききすぎじゃない?」 「そう? いま、窓を開けるよ」  男は、立ちあがって窓を開けると、眼鏡越しに私を見た。 「怒った?」 「べつに。眠っていたから」 「食べてないのかぁ、おなかすいてるでしょう。ぼくはみんなと食べちゃったんだけど、食べに行くんならつきあうよ」  男は腕時計を見て声を裏がえした。 「え? もう十時か、ごめん、えらい待たせちゃって、どうしよう、ラーメン屋ぐらいしかやってないなぁ」 「いい、おなかすいてないから」 「怒らないでください」  蛍光灯の下で見る男の顔はのっぺりと青白く、醜《みにく》かった。染《し》みだらけのほほ、あごの下からのどぼとけにかけての皺《しわ》、黄ばんだ皮膚《ひふ》、そして度の強い銀縁眼鏡の奥でまばたきをくりかえしている目は脅《おび》えきっているように見える。 「仕事って、」 「ああ、あのね、芸大のデザイン科の連中がパフォーマンスというか、コンサートというか、よくわからないんだけど、〈レッド〉っていうタイトルでね、三人の打楽器奏者と三人のダンサーでなにかやるみたい。そのポスターなんだけどね、どういうわけかぼくのところにまわってきたんだ。ギャラはすくない、五万円」  いいよ、と答える前に、男はレイアウト用紙を使って説明しはじめた。 「サイズはB2で、タイトルのために上にそうだな、二十センチは欲しいな。下段に細目を入れるために十センチってところかな。あとは自由に使ってくれていいんだ。それとタイトルと細目のバックは金赤のベタにするからそのつもりで」  男はクリネックスを三枚引き抜き重ねて鼻をかんだ。鼻の下が赤く小鼻のつけ根の皮膚は荒れている。 「コンビニでサンドイッチかなんか買ってこようか」 「ほんとにおなかすいてないの。それより煙草すってもいい? 肺癌なの?」  男は一瞬眉をひそめたが、黙っていると机のひきだしからライターをとり出し、流しから灰皿を持ってきた。私のために用意しているのだ。 「ぼくの胃は横山大観《よこやまたいかん》の胃とそっくりなんだって、人間ドックに入ったとき、写真を見ながら医者がいうんだ。百二十歳まで生きる可能性があるってよ。それより早くかたづけよう。パフォーマーは、六人とも全身を真っ赤に塗るんだそうだよ、もちろんタイツは穿《は》くんだけどね。これだけじゃイメージ湧《わ》かないか」  男はふいにそわそわしたかと思うと妙に生き生きして、いつも私をいらだたせる。私は男のくすんだ横顔を眺めながら、なぜつきあっているのかを自問してみた。男性としての魅力はなにひとつ持っていない。男はからだをここに置き去りにして、こころを落ち着かせる場所がないまま放心しているように思える。魅《ひ》かれているとしたら、この世と隔った茫漠とした、地に足がついていない影の薄いところだろう。 「材料はこれだけなんだ」 「なんとかやってみるけど、問題は赤。赤をどう使うか。そっちがバックで使うなら、困ったな」 「じゃぼくのほうは赤やめとく」  男はくしゃみをし、鼻水をレイアウト用紙に飛ばした。 「薬飲んで寝たほうがいいんじゃない、仕事は早起きしてやったら」  男の唇のはしが釣針を飲んだ魚のように激しくひきつり出したのに気づき、私は話題を戻した。 「こういうのどうかな。包帯が、顔だけ、胸まで、膝までほどけている透明人間のようなひとがいて、ほどけたからだの部分は赤、目だけ白。どうしよう、目玉の色は変えたほうがいいかな」私は煙草の煙を深く吸い込んだ。 「それでいこう。じゃあぼくは自分のレイアウトやるから、高樹さんはそこの机使って下さい」鼻が詰まっている男は口で二度ばかり息をしてからいった。  私たちはそれぞれの仕事に向かい、汗ばんだ沈黙を積み重ねた。一時間ほど経《た》ったろうか、ライトテーブルにカラーポジを並べ、写真のセレクションをしている男が口をひらいた。 「清野さんが変なんだ」  私はあいづちは打たずに灰皿の吸殼《すいがら》を一列に並べ直してから、新しい煙草に火をつけた。 「このあいだ高樹さんとこに泊まったとき、電話かけてきたでしょう。先週の日曜日、話し合おうと思ってひさしぶりに帰ったんだ。ところがさ、通販カタログやテレ・コンワールドの商品の話ばかりしゃべりまくってさ。夕飯はぼくの好物のカレーライスだった。具はなんだったと思う?」  揉み消したはずの吸殼から煙が出ている。ミネラルウォーターをかけた。 「もやし。もやしカレー。あれにはまいった。煮込んだもんだからもやしはぶにょぶにょだし、カレー自体も水っぽいうえに酸っぱくってさ、食べられたもんじゃない。清野さんはおかわりしてたけどね。だけどそのときはまだ変わったことするなって程度に考えてた」  私は4Bの鉛筆で描いた透明人間の輪郭《りんかく》をひとさし指でこすってぼかしながら耳を傾けていた。 「家のなかは汚れ放題だったから掃除しようと思って、掃除機が入っている押し入れを開けた。もやしだよ。クローゼットと靴箱にももやしのタッパーがあった」 「更年期障害《こうねんきしようがい》じゃないの」  言葉にした瞬間、後悔した。いやな言葉だ。  男はライトテーブルのスイッチを切って立ちあがり、机の上の写植をコピー機に置いて、 「だってあれでしょ。普通の主婦が神がかって新興宗教の教祖になるのって、みんな五十前後でしょう、閉経期《へいけいき》」  となりの机に移動した男は定規《じようぎ》とカッターで拡大した写植を切りはじめた。男の妻が卵管狭窄《らんかんきようさく》で長年治療をしていたということを思い出した。  午前四時、あまりできのよくない絵を描きあげるまで私と男は言葉も視線も交わさなかった。私はポスターの絵を渡し、六階にあがって眠ったが、男は仕事をつづけた。  ドアロックに鍵を差してまわす音が聞こえる。やっと終わったのか、と私は浅い眠りから目を醒まし、あおむけのままからだを右側に寄せた。 「何時」 「あなた、どうしてここにいるの」  私は顔を起こした。カーテンのせいで部屋のなかは薄暗く、目を細めて声の主を見透かそうと思ったがだめだった。 「どうしてここにいるの」とくりかえし、女は靴を脱いでなかに入ってきた。妻だ。 「広瀬さんは二階です」  妻は内線ボタンを押し私から目を逸らさずに男が出るのを待ち、布団の下の全裸を見透かしたように薄笑いを浮かべた。どうしてはだかで眠ったりしたのだろう、つかれていたせいだ。 「広瀬くん? 洗濯物、宅急便で送ってっていったのに送ってくれないから、わたし取りにきたのよ」  私に聞かせるために受話器をとらず、オンフックにしている。 「どうしたの」  といって男はせき込んだ。 「どうして洗濯物、宅急便で送ってくれないのよ」 「くるときは電話してよ」 「送るって約束したものは送りなさい。それがいやなら洗濯物を持って週に一度は帰ってきなさい」妻はぴしゃりといった。  私は布団のなかで音を立てないように下着を身につけ、服を着るタイミングを計ろうと、妻を盗み見た。 「何度も説明しただろ。この通り、徹夜が多いんだから、横浜になんて帰れないんだよ」  忍び足でクローゼットを開けてハンガーから服をはずそうとしてふりかえると、妻が右手で頬杖《ほおづえ》をつき、左手で耳たぶをつまんで私を眺めていた。どんな男に下着姿を見られても、これほどからだが強張《こわば》りはしないだろう。私は洋服をかかえて浴室に入った。  痩《や》せている、四十キロちょっとしかないのではないか、髪は肩ぐらいの長さでパーマをかけている。化粧はまったくしていない、上はベージュに白の水玉のブラウス、下はすその長いキュロットスカート、男より一歳上なのだが子どもを産んでいないせいか若く見える、四十といわれても不思議に思わないだろう。扉の外では妻が男をなぶっている。 「いい、広瀬くん、よく聞いて。角の薬局で、段ボールくださいっていうの。もらってきたら、洗濯物をたたんで入れていくの、それで梱包《こんぽう》したらね、いい、メモして、3233─2018、ヤマト運輸の大手町営業所に電話して、段ボールの数と行き先をいいなさい。午前中だったら午後二時か三時にとりにきてくれるわ。配送のひとに用紙を渡されたら、名前、電話番号、段ボールの中身、この場合衣服って書くのよ。それでお金をはらって終わり、かんたんでしょ」 「いいよ、シャツは何回か着たら洗濯屋に出してるし、パンツやなんかは自分で洗ってるから」 「洗濯屋に出してたら、お金がいくらあっても足りません。洗濯物を持って帰ってくるのもいや、宅急便もいやっていうんなら、わかりました。わたし、週に一度とりにきます」 「いま行くから」弱々しい声が聞こえた。 「あなた、どうしてここにいるの」妻は便器の蓋に座っている私に声をかけてきた。  三度目だったが、この質問をする妻の声はまったく同じ調子だった。肌が冷たくなるのをおぼえ、つばを飲もうとしたが飲みこめなかった。私は浴室から出て、妻の目に射竦《いすく》められるしかなかった。  男が扉を開けて入ってきた。 「このまえ、週刊誌に赤ん坊のイラストお描きになったわよね。あれはわたしに対するメッセージ? あなた妊娠してるんでしょ」 「え?」 「わたしにはわかるのよ、あぁ、これを描いたひとは妊娠してるんだなって。なんの雑誌だったかしら、つい最近お描きになった猫のイラストもお腹大きかったわよねぇ」 「わたしはそんなふうに絵を描いたつもりはないし、妊娠もしてません」 「じゃあ無意識ね。あなたは妊娠三ヵ月です。知り合いの産婦人科を紹介してあげますから明日病院に行きなさい。なんならわたし、ついていってあげてもいいわよ」 「ばかなこというなよ」男は眼鏡からはみ出しそうなほど目を吊りあげた。 「なにがばかなことなんですか!」  妻は声を張りあげ、男をにらみつけた。 「処置するんなら一日でも早いほうがいいのよ。それともあなた、産ませるっていうの?」  この妄想《もうそう》を打ち壊すにはどういったらいいかと思案《しあん》したが、なにも浮かばなかった。妻の言葉の裏には、理詰めで話してもとりのぞけるものではない憤怒《ふんど》が潜《ひそ》んでいる。いま私がどう否定しても信じないことだけはたしかだ。 「広瀬くん、あなたパイプカットしなさい」  この言葉を聞くと、男の顔は真っ青になって歪んだ。 「ねぇ、帰ってよ。九時に学芸書房の菊池さんがくるんだ」  男は息が切れてしまったため、ひと呼吸置いて深く息を吸わなければならなかった。一睡もしていないのとかぜのせいで目が真っ赤に充血している。 「菊池がきて、わたしがいたらどうだっていうの。わたしにものをいうときは左脳を使いなさい、右脳じゃなくてよ。それができないのなら、せめて話をレイアウトしてから口にお出しなさい。わたしは彼女に絵をお見せしてから帰ります」 「絵なんてどこにあるんだ? 彼女をうちに連れて行くのはやめてよ」男の声はもはや悲鳴に近かった。 「興奮するのはやめなさい。そこの区民センターの視聴覚室を三時間だけ借りてあるんです。絵を展示してからここにきたんです」  妻は背筋を伸ばして私に向きなおり、女学生のような笑みを浮かべた。 「オフィスのみなさんにアドバイスしていただきたいと思ったんだけど、ここにプロがいらっしゃるなんてついてるわ。観てくださるわよね。ただし、わたしはイラストじゃなくて油絵だけど、でも絵の勉強はなさったんでしょうから」 「高樹さんポスターの色校の件はあとでファックスするから、もう帰っていいよ」  男は机の上のバッグを私に渡そうとしたが、妻はすばやく飛びついて奪いとり、バッグで男の頭を殴りつけた。 「お黙りなさい!」  男の眼鏡が浴室の扉のまえまで飛んだ。  外は強い風が吹いていた。雲もひとも風が吹く方向に流れている。そして私、男、妻の三人だけがその流れに逆らって歩いた。舗道のはしに植えられたプラタナスのこんもり茂った葉は、私たちの頭の上にリズミカルに影を落としては過ぎてゆく。 「くもりかぁ」  男は張りのない虚ろな声でつぶやいた。 「天気予報はくもりでしたから」静かに答えた妻のほおには穏《おだ》やかな表情がただよっていた。 「くもりだ」  男の肌は脂じみ髪はぼさぼさだった。 「髪伸びてるわよ。床屋行きなさい」妻はその前髪に手を伸ばし優しくひっぱった。  男は眼鏡をかけなおし、あわてて不機嫌な声と表情をこしらえた。 「今日時間ができたら行こうと思ってたんだよ」  私が生まれるまえからつづいているように思えるふたりの人生がこだました。私が一生味わうことのない関係から響き合うそのこだまに、羞恥《しゆうち》と哀しみを同時に感じないではいられなかった。その感傷《かんしよう》がとなりを歩く夫婦に向けられているのか、自分に向けられているのかわからなかった。毛虫か蟻、生きものを踏みつぶしたいと思いながら舗道《ほどう》を見詰めた。  妻は視聴覚室《しちようかくしつ》の前で大きく息を吸って口をむすび、なかに入ってもその息はのどにひっかかりでもしたかのようになかなか吐き出されなかった。  壁に立てかけられた十数枚の絵、赤や黄色の油絵の具をめちゃくちゃに塗った抽象画《ちゆうしようが》もあれば、描きかけの自画像、気球に乗った少女を描いたメルヘンチックな水彩画もあった。ひとりの人間が描いたとは思えないほどタッチも色彩《しきさい》もばらばらで、どれも鑑賞に堪えない稚拙《ちせつ》な絵だった。しかし私は異常な光を放つ妻の目に監視《かんし》されて、一枚一枚の絵に近づいたり離れたりしながら、個展に招かれた熱心な客をよそおった。自分が描いた絵を区民センターに並べ、夫の浮気相手に見せている妻、押し入れでもやしを栽培《さいばい》し、エプロンをしめてもやしカレーをこしらえる妻──。精神分析医ならこの絵を興味深く観察するのかもしれない。私は一枚一枚の絵に妻の精神のかたちを読みとろうとしたが、なにも見つからなかった。 「ここは三時間借りていますから、ゆっくりご覧《らん》になってね」  妻は私に向かってあごを突き出し、雌鳥《めんどり》そっくりの首すじが浮きあがった。絵の下に白い紙が貼ってあり、ひとつずつタイトルがついていることに気づいた。男はあらぬ方角に視線をただよわせている。時間は沈黙のあいだを這いずりながら過ぎてゆく。 「そっちの〈記憶喪失〉は自分の脳に手を突っ込み、記憶をかきむしっているイメージです。赤は血、黄色は太陽、青は海を象徴《しようちよう》しています。つぎの絵は〈足長おじさんの嘘〉、容子が子どものころ、いちばん好きだった物語なんだけど、そんなひとなんてこの世にいないわ、だから満員電車のサラリーマンの短い足を何本も描いたの。上半身が見えないところが構図としてはユニークでしょう。この〈欲望の断崖《だんがい》〉は、髪は脂ぎってフケだらけ、煙草くさい息をはぁはぁさせた男が、かばんを持った手を容子のお尻に押しつけてるの。そういう感じ、とってもよく出てるでしょ?」  男がすっとんきょうな笑い声をたてた。しだいに笑いは大きくなり、肩をふるわせ、からだを折り、頭をふって、部屋のすみのピアノでからだを支えながら男は笑った。笑い茸《だけ》を食べたらこんなふうになるのかもしれない。無表情でその様子を眺めていた妻は、頭を何度も上下にふったかと思うと、だしぬけに笑い出した。妻の笑い声は部屋中を駆けめぐり、男の笑い声はしぼんでいった。妻はスキップしはじめ、加速してゆき、信じられないスピードで円を描いた。手をひろげ、笑い、目だけは男にすえて駆けまわった。私は汗が飛び散るのではないかとあとずさりながら、この場を逃げ出す方法を捜したが、妻の円は渦を巻き、私を引きつけて離そうとしない。やがて妻は失速した独楽《こま》のようにふらふらと床に倒れ、断末魔に似た呼吸で胸を激しく上下させた。私はとっさにクズ入れのビニール袋を抜き取って、妻の口にかぶせ、吸って吐いて、吸って吐いて、さぁ吸って──、吐いて、とくりかえした。何年か前に急性アルコール中毒で救急車にかつぎこまれたとき、救急隊員に同様の処置を受け、病院に着くまでにはすっかり楽になっていた経験があったからだ。妻の呼吸は落ち着いていった。覆いかぶさってビニール袋を押さえている私を見あげる妻の目にうっすらと涙がにじみ、ありがとう、のどから声が洩《も》れた。私は黙ってうなずき、袋をはずした。  男は突っ立ったまま嗚咽《おえつ》している。妻は立ちあがって男の肩に手を置き、だいじょうぶよ、だいじょうぶ、広瀬くん、とあやすようにささやいた。妻の目はしばらく空を彷徨《さまよ》っていたが、だんだんと輝きを増し見ひらかれていった。 「その絵はアンリ・マチスの切り絵の影響下にあるってこと、ひと目でわかるでしょ。タイトルは〈切り取られた翼〉。翼があったところに赤い筋が入ってますよね。きっと刃物でばっさりやられたんでしょう。鳥の羽はわたしのお気に入りの服をちょっとずつちょん切って貼りつけたんです」  さすがに声は弱々しいものの、ブラウスの袖《そで》から出ているひどく細い右腕を痙攣《けいれん》させて説明をつづけた。となりの部屋でだれかが歌いはじめ、壁を通してピアノの音と歌声がただよってくる。 「その十号の絵は〈おっぱい〉。気球はおっぱいの象徴《しようちよう》です。気球の下の籠《かご》は子宮」  妻は急に肩を落として椅子に腰を沈めた。 「さぁ、どうかしら、思う存分批評してください」  私はとなりに座っている男に救いを求めたが、男はピアノに背をもたせて腕を組み眠ってしまっている。だれかべつの人間にゆすられているように妻の両手は小刻みにふるえている。 「あなたをデッサンしてみようかしら、もちろんはだかよ」  私は妻の関心がほかに移るのを願って、絵に沿って歩いてみた。 「お願いできる? ただとはいわないわ、百万、いいえ二百万出します。それを百号の油絵にしたいの、どう?」  声は容赦《ようしや》なく追撃《ついげき》してくる。 「とにかくそうしたいの、むりかしら。十二畳の客間をアトリエにするつもりなの、フローリングに変えて。一日十万でどう? だめ?」 「でも、わたしのからだなんて胸も小さいし貧弱で。なんだったら誰か捜しましょうか」 「うそおっしゃい! さっき六階で、わたし、画家の目で見たのよ! 甘く見ないで! それにわたしが描きたいのは性よ、セックスに狂った女の炎。あなた以外考えられないわ。あなたの全裸を描きたいの、ヘアの一本一本まで。あなたはただでだってモデルになる義務《ぎむ》がある。わたしのモデルにならなきゃならないのよ!」  ばたんとピアノの椅子が倒れ、私と妻が同時にふり向くと、男は椅子の脚にしたたかにあごをぶつけたらしく手で押さえてうめいている。 「このひとはねぇ、小学五年までお母さんのおっぱいを吸ってたんですって。わたし、男は生まれ育った家から離れなければ自立できないと思うの。だから結婚してからは実家に帰らせてないのよ。広瀬くん、九時五分前ですよ、菊池がくるんじゃなかったの。起きなさい」妻は唇をわずかしか動かさず冷ややかにいった。  マットのはしをつかんで上体を起こす。めまいがする。机の上の筆立てもCDラジカセも左斜め下にすべってゆく。夢のなかであげた悲鳴が干からびてのどに貼りつき、ひりひりする。水を飲もうと立ちあがった瞬間、部屋ぜんたいが左側にぐらりと傾《かし》いだ。マットの上にしりもちをつく。目を瞑《つむ》ってもめまいは収まらない。赤い色がまぶたと眼球のあいだを左|斜《なな》め下にすべってゆく。めまいはひどくなるばかりで一分と目をひらいていることはできない。  どのくらい時間が経《た》ったのだろう、眠りながら夢を見ているのだとわかった。カーペットは水びたしで、大豆がびっしりと敷き詰められている。大豆は発芽《はつが》し、みるみるうちにもやしになる。もやしの上にしゃがみこもうとしている自分にぎょっとする。トイレに行きたいが、もやしを踏みつけるわけにはいかない。そう思ったとき、胃の筋肉が強張《こわば》るのをおぼえ、息も満足にできなくなり、目を醒《さ》ました。膀胱《ぼうこう》が燃えるように痛い。  枕の横の目覚し時計は、六時二十分。夜なのか早朝なのかわからない。めまいがひどい。私はマットから出て、四つん這いで浴室まで行く。便器に座ると、からだをふたつに折り、頭をかかえる。からだ中汗ばんでいるのだが、歯はがちがち鳴っている。窓を開ける。夜だ。横になって目を閉じる──、ハイヒールのこつこつという響き、往来をぶらついているおそらく学生たちの笑い声、エンジンをかけたまま駐車している車、電車が走っている。窓を閉め、冷房のリモコンを押す。モーター音が気になり、冷房を切る。明日の締切を思い出したが、眠ったってかまうものか、閉じている目をさらにきつく閉じる。肌を合わせたときの男のからだの重みが鮮明に蘇《よみがえ》ってくる。それをはらいのけ、ゆきとの声を待ち望む。だいじょうぶですか、声はまだ聞こえてこない。ゆきとと雨のなかを歩いてから何日|経《た》ったのか、目を瞑《つむ》ったまま右手を額の前にかざし、指を折ってみる。おや指、ひとさし指、なか指、くすり指、こ指、こ指から指を立ててゆく。記憶のなかでは一年以上前のできごとのように遠い。私はゆきとが唇を押しあてた額に手を置き、自分のまわりに時間の糸をまゆのように巻きつけてゆく。過去に生きるのは、現在を生きるよりいごこちがよい。暗い。父と母は電気という電気を消してから眠るという習慣を守っていたので、それが自然と身につき、スタンドの豆電球ひとつでも眠れなかった。しかしいまは闇を怖れている。ふいに薄いタオルケットを頼りなく感じる。押し入れに羽根布団がしまってあることを思い出す。からだの向きを変え、枕の上にひじをついて頭を支え、スタンドの電気をつけた。そして力ずくで自分をまっすぐ立たせた。羽根布団をマットの上に投げおろす。布団のなかにもぐる。私の意識は部屋のなかを歩きまわって、怖いと思われる場所を捜す。だれかベランダに立っている。その気配はどんどん濃くなってゆく。恐怖で息が荒くなり、目の前の壁がゆれた。マンションの前でタクシーが停まる音、連絡がないのを心配した男かもしれない。ベランダに立って確認したい衝動に駆られるが、カーテンを開けることができない。十分待ってもインターフォンは鳴らない。神経が水を求めて伸びてゆく。水を飲みたい。水を飲みたい、水を飲みたい。爪先で布団をすこしずつ下に押しやり、そのままもぞもぞと這い出て、四つん這いで冷蔵庫に向かう。やっとの思いで手にしたミネラルウォーターを枕のわきに置き、布団に倒れた。手を伸ばせば水が飲める。いま眠れば夜中の二時には目を醒ますはずだ。思う存分水を飲んで、シャワーで汗を流し、コンビニに買い物に行く。部屋に戻ったら仕事だ。コンテを握る自分の姿を思い描いているうちに急激に眠くなった。  ファクシミリが用紙を切る音で目を醒ます。イラストの催促《さいそく》。ファックス用紙の表示で、今日が七月二十一日午後一時五分だと知り、恵比寿《えびす》駅改札で編集者と待ち合わせしていることを思い出した。何時の約束だったろう。眼鏡をかけて、壁に貼ってあるスケジュール表を見る。十一時だった。あわてて受話器をとり、外線ボタンを押したが、なんといってあやまればいいのだろう、受話器を戻す。机の上を見ると、封を切ったクッキーの箱に蟻が出入りしている。蟻だらけだ。箱をベランダに棄《す》てようとガラス戸を開ける。一階の宅配ピザ屋から流れてくるにおいで胸がむかつき、口を覆った。男の妻がいっていた妊娠の可能性を考えてみる。あと二週間しなければはっきりしたことはわからないが、そんなはずはない。クッキーの箱をベランダに置いてガラス戸を閉めた。イラストを描かなければならない。机の前に座り、煙草に火をつけ、そのまましばらく頭が冴《さ》えるのを待った。数匹の蟻が食べ物を捜して机の上をうろうろしている。ファクシミリはつまずいたような音をたててから、受信ランプを点滅させた。白い紙が流れてくるより一秒早く電話線を引き抜いた。もうだれの筆跡《ひつせき》も見たくない、だれの声も聞きたくない、だれにも逢いたくない。ペットボトルを哺乳瓶《ほにゆうびん》のように両手でつかんで、飲む。ぬるんだ水で胃が満たされるのを計って、睡魔《すいま》は私の背中をさすりはじめる。眠気にあらがって目を開けていようと、両手を顔にかざしたが、その両手で顔を覆い、ふたたび眠りに堕《お》ちてしまった。  塹壕《ざんごう》から顔をのぞかせるようにしてあたりをうかがうと、部屋は夕闇に沈んでいる。私は突然ゆきととの結婚を決意する。仕事をはじめられそうな気がする。ワンカット描けたら電話のコードを差し込み、新聞と郵便物をポストから出し、食べ物を買いに行こう。この何日かは歯も磨かなければ髪も梳《と》かさず鏡ものぞかなかった。熱い湯とせっけんの泡で気分がよくなるにちがいない。  浴室の扉を開ける。洗面台や浴槽にへばりついている髪の毛をトイレットペーパーでつまみとる。栓をひねって勢いよく湯を出し、パジャマを脱いで便器の上に置き、まだ湯のたまっていない浴槽のなかで膝をかかえた。インターフォンが鳴っている。宅急便か速達だろう。湯は腰のところまできている。急に眠くなる。目を瞑《つむ》る。  湯をしたたかに飲み、せきこんだ。湯はざぁざぁあふれている、栓をひねって止め、息絶え絶えになって浴槽から這って出る、かんぜんにのぼせている。はだかのまま冷蔵庫のまえにしゃがみ膝立ちで扉を開ける、製氷室の氷を出そうとして、ひとつふたつ床に落ちる、氷をひろって口に入れ、しゃぶりながら冷蔵庫に寄りかかって、眠った。  目を醒ます、頭痛と嘔気《おうき》、もう一時たりともこの部屋にはいたくない、この部屋を出れば睡魔《すいま》から逃れられるにちがいない。私は服をぎくしゃくと身につけ、扉を押し、外に出て鍵を閉めた。一階の郵便ポストは新聞、編集者からの速達、送られてきた掲載誌でいっぱいだった。バッグに入るだけ郵便物をつっこみ、駅に向かって走り出そうとしたその瞬間、「どこ行くの」と声をかけられ、ふり向くと、玄関の植え込みに妻が座っていた。 「インターフォン鳴らしても出ないから、ここで待たせてもらっていたのよ」そういって笑うと妻の目と口がぱっと大きくなった。「あなた、顔が真っ青、病気よ。部屋に戻ってちょうだい。三十分もここで待ってたから、汗だくだくよ」 「すみません」私は暗証番号を押してオートロックの扉を開け、妻といっしょにエレベーターに乗った。 「すごく散らかってるんですけど」 「つまんないこといわないの」  鍵を差し込んで左右に動かしたがひらかない。何度差し込んでも同じだ。 「貸してみなさい」妻は一回で開け、ふりかえって微笑んだ。そして先に入り、脱いだ靴をそろえると、私の靴までそろえた。 「わたし一本電話入れなきゃならないの。貸してくれる?」といい部屋の奥へ入っていった。 「どうぞ、いまつなげます」 「だめよ、電話切ったりしちゃ。この仕事は信用だいいちなんですから」妻は電話のコードを差し入れてプッシュボタンを押した。 「広瀬と申しますけど、津田先生いらっしゃいます? 何時ごろお戻りですか? じゃあですねぇ、一時間ちょっとおくれますとご伝言ください」  電話を切ると、妻は立ちあがって冷蔵庫を開けた。 「あらぁ、なんにもないのねぇ」 「ないんです」 「わたし、買ってくるわ」  わたしが、といって玄関のほうへ歩き出すと、指が食い込むほど強い力で肩をつかまれた。 「あなたは横になってないとだめ、病気なんだから。あれ、ここガスじゃないの? さて、困った。いいわ、とりあえずつくる。なにか食べたいものある?」  私は黙ったまま財布から五千円札を抜きとって渡そうとしたが、妻は私の背中をさすってから外に出て行った。受話器をとって、男の事務所の番号を押した、だれも出ない、カレンダーを見る、日曜日、事務所は休みだ。自宅に帰っているのかもしれない。手帖《てちよう》の最後のページに小さく書いてある番号をたしかめて、はじめて男の自宅に電話した。だれも出ない。私は妻の希望通りの病人になるためにマットに横たわってまぶたを閉じ、眠ったふりをすることにした。  帰ってきた妻は部屋を掃除《そうじ》しはじめた。冷蔵庫にものをしまう音、足音、掃除機の音、洗濯機の音、部屋中音であふれている。やがてなにかが煮えているにおいがする。スカートが擦《す》れる音が近づいて来た。 「できましたよ」  目を開けると、枕の横にただひと皿、野菜スープが置いてある。私はからだを起こし額にかかった髪をゴムでまとめてから、スープとスプーンに手を伸ばした。スープにしては具が多い。野菜サラダのパックをそのまま煮たにちがいない。千切りのキャベツ、ニンジン、タマネギなどが団子《だんご》状になっているが、もやしは入っていなかった。細切れの牛肉、ニンニク、蒲鉾《かまぼこ》、ちくわもある。 「広瀬くんはね、結婚してくれ結婚してくれって、四六時中耳鳴りみたいにうるさくって、あんまりうるさかったから、結婚してあげたの、それだけのことなの」妻は私がスプーンを口に運ぶのを見張りながらいった。  私は牛肉を咀嚼《そしやく》する自分の歯の音に耳を澄ました。 「わたし、美大で助手をして、研究室に広瀬くんが出入りしてたの」妻は突然言葉を切って、半分も食べていない皿をのぞきこんで満足そうにうなずいた。 「おかわりありますよ」 「もういっぱいです。ごちそうさまでした」 「わたし、これから弁護士の先生のところに相談に行くんです。広瀬とは別れませんよ。あなたに慰謝料請求《いしやりようせいきゆう》しようと思っています。昨日、先生と電話で話したんですけど、請求額は一千万ぐらいでしょうって。だいじょうぶ、心配しないで、実際は百万くらいで落ち着くらしいから。わたしはね、お金が欲しいわけじゃないの、あなたにきちんとあやまってほしいだけ。近々裁判所から呼出状が届くと思いますけど、あなたも弁護士たてたほうがいいわよ」  妻はバッグを肩にかけて立ちあがった。 「じゃあお大事にね」妻の唇から微笑がすべり落ち、玄関に向かって一、二歩歩き出し、ふりかえった。しばらく部屋の内部をのぞきこんでいたが、なにかいいかけて口を閉じ、去っていった。  デパートの屋上は風が強かった。どんよりとした曇り空が屋上まで降りてきているように感じる。それでもわずかばかりの陽光《ようこう》が雲の切れ目から射し込んで、右手の壁ぞいのペットショップには夏の気配がただよっている。ゆきとは私の数歩先を歩いている。風がゆきとの白いシャツのうしろを大きくはためかせている。私は昨夜眠るまえに思いつくまま数えあげたゆきとへの誓いを暗誦《あんしよう》してみる、手をつないで街を散歩し、一匹の魚をいっしょに食べ、暗闇のなかに並んで横たわり、ゆきとの手をとって、それを自分の胸に、腹の上に置く。  私は自分の決断をゆきとに話すことをためらっている。口にしたらゆきとは煙より早く消えてしまいそうな気がする。浦島太郎、夕鶴、人魚姫、思いを現実化するとたちまちあとかたもなく消えてしまうという寓話《ぐうわ》は、思いと現実とは異次元にあることを忘れたがる人間へのしっぺ返し、思いを口にしてはいけないというリアルな忠告なのだ。ゆきとに手を引かれて永遠の休日に向かおうとしている私の願いは、もうひとつの大いなる眠りに過ぎないのかもしれない。  ゆきとは屋上のまんなかに立ってあたりを見まわしている。フェンスぞいには十二脚の白いテーブルが並び、小さな子どもを連れた母親や、若い男女が売店の焼そばやホットドッグを食べている。ゆきとの目はひとびとの上を流れるように過ぎ、ひと気がない人工芝に止まった。  人工芝には三人の男が寝そべっているほかはだれもいない。ゆきとが靴のまま脚を踏み入れようとしたので、ひもをゆるめて靴を脱がせてやった。ゆきとは人工芝の上で足を伸ばし、片方の手をほほにあて、もう一方をももに載せている。今朝吉祥寺にある家を訪ね、電車に乗ってここに着くまでのあいだゆきとは一度も私と目を合わせなかった。  ゆきとは五分もしないうちに立ちあがった。靴ひもを結んでやると歩き出し、まっすぐペットショップのほうに向かっていった。  仔犬、仔猫、兎《うさぎ》、モルモット、そしてその餌《えさ》や籠《かご》、私たちは動物園の珍獣《ちんじゆう》を観察する歩調でゆっくり歩きゆっくり見た。  ゆきとはカナリアの竹籠の前で歩を止めた。レモン色、オレンジ色、巻毛、それぞれ別の籠に分類されている。止まり木につかまった鳥がチチッ、ルルッとさえずって頭をまわすと、ゆきとの目はカナリアそっくりに丸く見ひらかれ、私はいまにも唄《うた》い出すのではないかと思った。犬小屋に入れば犬たちに、止まり木では鳥たちに、ゆきとは完璧に擬態《ぎたい》できそうな気がする。  熱帯魚売場でゆきとが、いえろぅこんごぺとら、ごぉるでんえんぜる、しるばぁばるぅんもぉりん、と魚の表示を読みあげるのを聞いているうちに、家裁の調停期日が迫っていることを思い出した。呼出状には申立人に妻、相手方に私の氏名が記入されていた。男の名前が併記《へいき》されていないのが不思議だ。世間の規範《きはん》の前では夫はするりと妻のうしろに隠れてしまうものらしい。区民センターで別れてから逢っていない男は妻が家裁へ申し立てたことを知っているのだろうか。  妻がこしらえた野菜スープの味が舌に蘇《よみがえ》る、そして視聴覚室で観せられた奇妙な絵も。バッグがずしずし重くなってゆくような気がして、肩からおろして左腕に持ち直した。私はかくもたやすく現実にがんじがらめにされている自分に気づき、口にふくんだ大豆が芽吹《めぶ》き、するすると茎が伸び、もやしに巻きつかれて身動きできないでいる女の図柄を頭のなかで描いた。髪の毛ももやしにすべきだろうか、と考えてゆきとを目で追った。  ゆきとは錦鯉《にしきごい》が泳いでいる平たい大きな水槽の前でしゃがみこんでいる。ゆきとが手をたたくと、鯉はいっせいに浮かびあがり口をぱくぱくさせた。ゆきとはおや指となか指で水をはじいて、はね飛ばした。私はあふれかかっていた憎悪がゆっくりと消えてゆくのを感じた。  ペットショップから出る。どこかに腰をおろしたかったが、ゆきとは早足で売店に向かった。そして歩きながら上着の内ポケットに手を突っ込み、はずみで硬貨を落とした。ゆきとは膝を折り、慎重に五百円玉をひろった。  ゆきとはメロンソーダをストローで飲んではゆっくりと静かに口で息をし、〈セントポーリアフェア〉展示会場の方に歩いて行く。  ひとはまばらだった。マニキュアを塗った女の爪に似た赤やピンクのセントポーリアの鉢のあいだをふたりで歩く。私はこれ以上ないほどの唐突さでまっすぐにいった。 「結婚しましょう」  ゆきとはメロンソーダをず、ず、ず、と吸いあげた。ふいに子どもの声が沸き立ち、ゆきとの首の向こうに目をやると、広場があり、すべり台、シーソー、飛行機の乗り物などで子どもが遊んでいるのが見える。目を戻すと、裂けた翅《はね》をした紋白蝶《もんしろちよう》がセントポーリアに止まっている。どこから翔《と》んできたのだろう。私は上唇の汗の玉をなめとってからもう一度いった。 「結婚しましょう」 「できません」  ゆきとの声は鈴のように響いた。  目を逸らすことも言葉を発することもできない。 「おかあさんが、うらないのひとにあなたのしゃしんをみせました。あなたはわるいひとです。はんせいしないひとです。ひだりがわにあおじろいかおのおとこがいます。ぜんせでずっとおとこだったからこどもをうめません。さんねんのうちにじんぞうかしきゅうのびょうきでしぬそうですね。かわいそうです」  悪いひと、悪いひと、この言葉が私の頭上にたゆたった。 「あなたは、わたしのことを悪いひとだと思う?」  ゆきとは力強く首をふった。 「じゃあどうして結婚できないの」 「おかあさんがいないといきていけないから」 「結婚すればわたしがずっといっしょにいる」 「あなたはしにます、はんせいしないから」  私のからだはゆらりと動き、ゆきとを通り越し、広場に向かった。飛行機の乗り物にまたがり、ポケットの百円玉を入れた。飛行機が動き出す前に両肩がふるえた。空はゆっくりと傾いていった。ゆきとは激しく手をふった。さようなら、どこかへとんでいけ、と? ゆきとは笑っている。  電信柱の番地とメモの住所を見比べながら坂をのぼる。右手に緑がこんもりと生い茂った小さな日本家屋がある。妻から送られてきた手書きの地図によれば、この家にまちがいない。距離を隔《へだ》てて眺めるとある種の威厳を持っているが、近づくに従って不動産屋がいう築何年のせいではなく、ひとがひさしく棲んでいない家と同じ無数の傷みが見てとれる。〈清野〉〈広瀬〉ふたつ並んだ表札を確認して木戸の前に立った。インターフォンはない。おそるおそる閂《かんぬき》を抜き、木戸を押す。狭い庭があり、玄関への通路の両脇には大振りの植木鉢が並べられている。原色の大輪の花が多い。薔薇《ばら》、ダリア、ケイトウ、ひまわり、花たちは眠い香りを私に吐きかけ、棘《とげ》や葉でスカートをひっかき、侵入を拒否する番人の役割を果たしている。夕闇に目を凝《こ》らすと、庭のすみにペンキが剥《は》げた犬小屋がある。犬の姿は見えない。玄関わきに置いてある茶色いかめをのぞきこむと、水は出《だ》し汁《じる》のように濁《にご》っていて黒ずんだ影が蠢《うごめ》いている。玄関のブザーに手を伸ばしたとき、縁側に姿を現した妻は茜《あかね》色と水色の花柄のエプロンをしめバレリーナのようなシニヨンをゆっていて、そのせいか少女のように見えた。 「調停中は逢わないほうがいいっていわれたんだけどね、なぁにあんな小娘のいうことなんて聞いちゃいられないわ」  妻の弁護士は三十代の女性だと聞いている。河合に紹介してもらった初老の弁護士は、不倫の調停で相手の弁護士が女性の場合、冷静な話し合いは持ちにくいとしきりにこぼしていた。ヒステリックに一方的な批判《ひはん》を浴びせられるだけだと。さらに調停委員が女性であればこちらのいい分が通ることはまったく期待できないという。 「あなた、どうして裁判所にこないの? 代理人のひとにまかせちゃ負けちゃうわよ。あなた次回は涙のひとつでも見せにきたほうがいいって。三百万まではいかないと思うけど、二百万の可能性はあるわよ。容子はじゃじゃ馬なの、とことんまでやる女なのよ」  夕陽が妻の肩に輝き、髪にからみ、目をきらめかせている。妻は手まねきして私を呼び寄せ、縁側の上から腰をかがめて耳打ちした。 「あのね、電話ではいわなかったけどね、広瀬くんのお母さん、きてるの、どうしてもあなたに逢いたいってきかないから。さぁ、入って」  玄関口にまわってきた妻に急《せ》き立てられて家のなかに入ると、妻は私の靴をすばやく靴入れにしまった。  客間の床はカーペット敷で、区民センターでいっていたようなアトリエには改装されていなかった。油絵の具のチューブが散乱し、ためし塗りをしたらしく壁もカーテンも絵の具だらけだった。窓ガラスはひび割れ、テレビの横の観葉植物《かんようしよくぶつ》の鉢はひっくりかえったままで、ぶちまけられた土には絵筆を突き立ててある。  白髪をウエーブさせ、紫色のツーピースを着た見るからに上品な老婦人がソファに腰をかけている。私をつぶさに観察し終わったのか、余裕たっぷりに立ちあがって深々と頭を下げた。 「あたくし幸次の母でございます」  私は会釈《えしやく》をかえしたが、母親は腰をおろそうとはしない。 「高樹さんですわね、見ての通りですが、今日はありのままをご覧《らん》になっていただいたほうがいいかと思い、お恥ずかしい限りですが、なにひとつ嫁にもかたづけさせませんでした。さぁ、おかけになって」  座る場所に困る。この女と向き合って座るしかないのか、両脚をひらいて男を産み、乳房を玩具《がんぐ》のように与え、糞尿《ふんによう》で汚れたおむつを洗い、しぼんだ朝顔に似た性器を見た女。顔が熱くなるのを感じた。ここにどうぞ、と母親は左はしに腰を移し自分のとなりをてのひらで撫《な》でた。しかたなく右はしのひじかけにからだを押しつけるようにして座ったが、ここに座ると妻と向き合うことになってしまう。 「容子さんは夕飯のしたくをしてよろしいですよ。あたくしが高樹さんのお相手しますから」  テーブルのガラス板の下には日本酒、焼酎《しようちゆう》、ビール、シャンパン、ウイスキー、ワイン、ジン、缶のカクテルドリンクなどありとあらゆる種類の酒が用意されている。おそらく私の好みを知らない妻が酒屋の棚に並んでいる酒を手当りしだいに買って、届けさせたのだろう。 「なんにいたしましょうか。バーテンみたいでいやですわね」  と母親は口に手をあてて笑った。あきらかに不倫で危機に瀕《ひん》した息子夫婦の母親という立場を楽しんでいる。日ごろ使えないで隠し持った大鉈《おおなた》をふるい一件落着《いつけんらくちやく》に持ちこもうという闘志《とうし》を全身から発散させている。そのくせときどき見合いの席で嫁候補を見るような目つきをする。おそらく夫の浮気で苦しんだひとにちがいない、それにこのひとは見合いの仲立ちをこころから楽しんで務《つと》めるタイプだろう。 「じゃあ焼酎のウーロン茶割りを」  私はガラス板の下をたしかめてから頼んだ。母親は皺《しわ》んでいるが長い指でグラスを引き寄せ、 「お話はだいたい容子さんからうかがっております。こんなことになった責任はあたくしにもあるんです。十年前に他界した幸次の父はとても厳しいひとだったんですけれどね、その分あたくしが甘やかしてしまって、」  母親は話し合いの匙《さじ》加減でも思案しているのか、慎重に焼酎とウーロン茶を配合した。まさか私を酔わせてあとに用意しているリンチに備えているわけではあるまい。私は黙ってグラスに口をつけた。そのとき妻が牛乳のパックを持って台所から現れ、にっと歯を見せると、カーペットに牛乳を一リットルぜんぶこぼし、その上にペーパータオルのようなものをかぶせて手で押さえた。 「これがスーパーシャビークロスよ、すごい威力《いりよく》でしょ。ためしたかったらそこいらのお酒をこぼしてやってみてもいいのよ」  窓の外にクロスを突き出し両手で白い液体をしぼり出し、ソファの横に〈スーパーシャビークロス〉を置くと、急に笑顔を消して台所に戻っていった。 「あたくしは高樹さんのお仕事拝見していないんですけれど、すごいのねぇその若さで、二十六歳でしたっけ?」母親は不快そうにせきこんで、ハンカチを口もとにあてた。  私とこの女との関係はいったいなんなのか、考えてみないわけにはいかない。三十分前に路上ですれちがったとしてもなんの意識も持ちようがなかった女に、見え透いた罠《わな》を仕かけられ、追いこまれようとしている。電話一本でこの家にきたのは、妻の狂気じみた磁力にあらがい難い魅力を感じているせいだ。しかしこの女にじわじわとからめとられる道理はない。立ちあがるべきだ、そう思いつつ、首を傾《かし》げて私の顔色をうかがっている母親の罠に、もう一歩踏み出してしまった。 「二十七です」 「幸次は来年の四月で五十になります。もうやりなおしはききません。この業界からしめ出されたら、首をくくるよりほかに道がないんですよ。あなたもたいへんな才能をご両親から受け継いでいるわけですし、ね」  煙草を吸いたいが持ってきていない。私が席を立てないのは、母親がいっていること自体は筋が通り、なにひとつまちがっていないからだ。私のまえにはじめて現れた世間というもの、私がこれまで面と向かわずに済ませていた常識というものが、目の前で微笑《ほほえ》んでいる。 「ちょっとお義母《かあ》さん、ドア開けて」  まるで私の声にならない怒りを聞きつけたかのように妻が母親を呼んだ。母親が扉を開けると、今度は健康ぶら下がり器をかついで部屋に入ってきた。 「これは腰痛にいいの。あなたにはぴったりよ、だって一日中座りっぱなしの仕事でしょ」  妻はぶら下がってみせた。 「手がしびれるほどつかまってなきゃだめなの。わたしはいつも小熊さんを五十匹数えることにしてるの、小熊さんが一匹、小熊さんが二匹、小熊さんが三匹……」  私は妻の華奢《きやしや》なからだの線を眺めていたが、母親は見向きもせずに焼酎のビンを握る手に力を込め、積木を崩された子どものように憎悪《ぞうお》を隠そうとはしなかった。 「高樹さんはどうお考えですか」 「ただいまぁ」  玄関から腑抜《ふぬ》けた声が聞こえた。男は客間の扉を開け、戸口に突っ立ったまま茫然《ぼうぜん》としている。どうやら母親と私がきていることを知らされていなかったようだ。男は指先で押すようにして額の汗をぬぐってから部屋に入ってきたが、絵の具のチューブを踏んづけて短い叫び声をあげた。 「あらまぁ、新しいのに履きかえなさいよ」  母親は柔《やわ》らかい声を出した。男は真っ赤な絵の具がついた靴下を脱いで力なく笑い、つい見てしまったという感じで私のほうをちらりと見た。そしてすぐに視線を逸《そ》らしたが、もう一度今度は訴えるような眼差しをよこした。 「お義母《かあ》さん、押し入れからもやし出して」 「幸次、押し入れってどこなの」母親は腰をあげた。  男は片足で立ちあがって壁に手をついてとりに行こうとした。 「広瀬くんはハサミとザル!」怒鳴り声とともに妻はぶら下がり器から落ち、息を切らして、「広瀬くんビニール袋持ってきて」とうめき、男が持ってきたビニール袋を口にあて、吸ったり吐いたりして見せて目だけは私を見て笑っている。ビニール袋を外して、「押し入れはとなりの部屋です、お義母さん」そういって、義母が「はいはい」といって立ちあがりとなりの部屋に行くのを見とどけると、袋をふくらませて思いきりたたいたが、破裂《はれつ》はしなかった。そして、「お義母さんわかりますか」と声をかけて台所に消えた。ふたりの女は共通の敵である私がいることでかろうじて仲むつまじい嫁姑《よめしゆうとめ》を演じている。  母親がもやしのタッパーウェアを、男がザルとハサミを手に戻ってくるタイミングを計って、 「切ってザルに入れて!」台所の妻の声がはじけた。  男は育ちすぎて本葉が出ているもやしを付け根から切った。妻は夫をもやしに見立てて、私の、そして自分の嗜好《しこう》の滑稽《こつけい》さを嘲笑《ちようしよう》し、私たちもまた、光を遮らなければ育たないもやしだと思っているのだろうか。もやしはザルのなかに山盛りになってゆく。 「靴箱のなかにもあるからお願い」  腰をあげようとした母親を制して男は部屋から出ていった。そしてもやしを持ってくると、それがなにかの儀式《ぎしき》ででもあるかのごとく厳粛《げんしゆく》な面持《おもも》ちでもやしを切った。  妻が台所から飛び出してきた。手には包丁とコカ・コーラの空缶を握っている。床に空缶を置き、右手で包丁の柄《え》を握り、左手を刃の背に押し当て全体重をかけると、缶はまっぷたつに切れた。妻は二度鼻で息を吸い、「広瀬くんもやし持ってきて」というと包丁を握ったまま台所に駆け込んだ。男はもやしを台所に運んだきり戻ってこない。下ごしらえや皿洗いを手伝わされているのだろう。 「幸次の父は外科医としては業界で五指に入る腕だったんですの。最近あたくしは仏壇の主人の写真に顔を合わせられないんですよ。幸次が、他人さまにうしろ指さされることになったら、あたくしどうすればいいのか」  妻のけたたましい笑いで中断される。 「慰謝料《いしやりよう》どうやって支払ってくれるの」いつのまにか客間に現れた妻は、質問だけぶつけて私の返事を待たずにきびすをかえした。母親は、「嫁も不憫《ふびん》でああやってはしゃぐのも」とうつむいたがホームドラマの姑《しゆうと》役のようには涙を出せない。 「あなたとのこと、あちこちでうわさになってるそうじゃありませんか。あなたが幸次を思ってくださるお気持ちは、母親としてもとてもうれしいんです」 「わたしの絵、号いくらぐらいかしら」  妻は卵を入れたボウルをかかえ泡立て器でかきまぜながら、ふたたび会話に割って入り、深呼吸をして背すじを伸ばした。ファッションモデルめいた優雅なターンを披露して台所に戻った。妻の眼差《まなざ》し、仕種《しぐさ》、声には浜辺で遊ぶ子どもにも似たなにか輝くもの、踊《おど》るような調子があった。 「あなたみたいに若くて美しいかたが、幸次みたいなものとなにがおもしろくておつきあいなさるのか、さっぱりわかりませんの。あなたみたいな、なんていうんでしょうね、男好きのする、いえ、そうセクシーですよね、セクシーなお嬢《じよう》さんに甘い言葉のひとつもかけられれば、幸次がのぼせあがるのもわかります」  母親はこれまで見せなかった狡猾《こうかつ》な表情を口もとに集めて急に声をひそめた。 「あなた収入はいくらおありになるの? 月々」  そのときあの蒸し風呂の老人は、じっとして騒がなければそのうちひらく、といったのだと確信した。私はただ黙って母親の目を見詰めつづけた。母親も私を見すえていたが、ふと逸らして焼酎のウーロン茶割りをテーブルに置いた。  これで何杯目だろう。自分の意識が花粉のように飛び散っては、ゆっくりと吸収されてゆく気がする。なにもかもどうでもいいという気分と、もう堪《た》えられないという気分が交互に襲《おそ》ってくる。今日この家に足を踏み入れるとき男とは二度と逢わないとこころに決めていたのだが、迷っているのは男に対する未練ではなく、母親に対する反撥《はんぱつ》からだ。  妻がうしろに男を従えて料理を運んできた。 「わたし、男の子だと思うな。男の子を妊娠すると顔がきつくなるっていうじゃない。名前、幸次《こうじ》にするの?」  母親は私の下腹部を凝視《ぎようし》する。 「お義母さん、初孫よ、幸次ジュニア」  妻の目はいじわるさをふくんで輝いている。つぎつぎに並べられる皿からは湯気が立ちのぼっている。母親にうながされて男と私がテーブルに移動すると妻は料理を説明した。 「甘えびと帆立のサラダ、手羽先《てばさき》と卵の醤油煮《しようゆに》、それに鰺《あじ》のたたきとオニオンスープ、鰻《うなぎ》の肝《きも》のお吸い物、トマトとカニともやしのバター炒《いた》め、鰆《さわら》の西京焼《さいきようやき》、キムチと焼き唐辛子《とうがらし》、そっちがロールドビーフのチーズ焼、さぁ召しあがって」  最初に母親が息を止め、ロールドビーフをナイフで切り、フォークを突き刺した。フォークに肉がひと切れついたのを見て、ゆっくりと息を吐いた。そして口に入れるまえに男に目配せした。すると男はスプーンでスープをすくい、乾いた唇のあいだに押し込み、気難しい表情で食べはじめた。蠅《はえ》がプーンと耳のわきをかすめる。私は頭をふって追いはらった。焼けた唐辛子のにおいが息を詰まらせ食べるのをじゃまする。母親はサラダを小皿に取り分け、男と私の前に置いた。 「おいしいわよ、このサラダ、彩《いろど》りも鮮《あざ》やかで、ねぇ」 「料理も絵もおんなじ、作品なの、で、わたしがどうして作品をつくるのかっていうと、からだや言葉で気持ちを伝えられないからなの。舌と目でわたしの気持ちを感じてほしいわけ。鈍《にぶ》いひとの手がかりになるようにタイトルをつけてあるのよ。右端から〈失われた楽園〉〈顔面蒼白《がんめんそうはく》〉〈がらんどう〉〈夫婦〉〈アイムソーリー〉〈老婆の乳首〉」  妻はぷっと噴《ふ》き出したが、私も男も母親も無言のまま料理を見詰めている。蠅が肉の上に止まり、足を擦《す》り合わせて飛び去った。私は手羽先にはしを伸ばしたが、気が変わってひっこめた。 「栄養とらなきゃだめよ。あなたのためじゃなくって」妻はフォークをテーブルの上に置くと私をしげしげと眺めた。  妻は私より義母にちらちらと視線を送り、指の爪でテーブルをたたきはじめた。 「幸次、ほんとうにこのかたに子どもができたの、まさかそこまで恥知らずじゃないでしょ、しゃんとしなさい! 世間に顔向けできないことはしないの!」  母親の金切り声にあおられたのか、妻は突然皿をつかみ、男めがけて思い切り投げつけた。皿は的《まと》をはずれ、壁にあたって砕けた。母親はあんぐりと口を開け、とっさに声が出ない。男はあごの筋肉をひきつらせ息を少しずつ吐き出した。 「いいかげんにしろ、子どもなんてできてない」  母親はいきなり椅子をはずし、土下座《どげざ》して額を床にこすりつけた。私は足もとに這いつくばったかたまりをこれ以上ないほど冷ややかな目で見おろした。視線をあげたとき男の目とぶつかった。男の目は被膜《ひまく》で覆われたように焦点がぼやけ、その下では母親と私に半々に向けられた憎悪《ぞうお》が沸騰《ふつとう》している。母親は頭をあげてゆっくり立ちあがり、私を一瞥《いちべつ》すると客間から出て行った。男はあとを追った。妻は大笑いしながら窓を開け、ロールドビーフをつかんで雪柳の樹に向かって投げつけた。ストライク、と自分で拍手すると、笑いは鼻唄に変わり、つぎつぎと料理をぶちまけた。私は男と母親が座っていた椅子のクッションの尻のくぼみを眺めた。高温の液体が足や腹や胸や顔のほうにまで、波のようにうねっては行ったり来たりしている。それが怒り、あるいは笑いに変わるのを身じろぎしないで待った。  妻はどしんと椅子に腰を落とし、頭をのけ反らせ、両腕をだらんと垂らした。男と母親も戻ってきて席に着いた。 「清野さんにはほんとうに悪いと思うけれどぼくとしては離婚する方向で考えます」男は大きく息を吸った。  妻と母親が同時に怒鳴り出し、あまりに大声だったのでひと言も聞きとれなかった。母親が息を継いだすきを衝《つ》いて、妻は男の顔の中心に向かって直接言葉を浴びせた。「広瀬くん、不倫した側からの離婚の申し立てはできないのよ。どっちみちわたしが一生絵を描いて暮らせる分の慰謝料《いしやりよう》をくれない限り判は押さない。目を醒《さ》ましなさい。あなたは棄てられるのよ、このひとに。どうしてわからないの、このひとはあなたのことなんてこれっぽっちも考えてません。頭にあるのは自分のことだけです」 「慰謝料はできるだけのことをする。ぼくは高樹さんに対して責任をとるのが筋だと思う」 「責任なんかいらない」舌がふくれあがり、頭のなかで蠅《はえ》のうなり声に似た音がしている。 「それは別れるということですね」間髪入れず母親が口をはさんできた。  あなたのお陰でこの男と別れられて感謝してます、こんな棄て台詞《せりふ》がほとばしりかけたが、口を衝《つ》いて出たのはべつの言葉だった。 「家裁に訴えられて、こんな風に巻き込まれたわたしが、どんな顔して、はい別れます、といえるんでしょうか? 教えてください」  茶番だ、そう思った途端背筋に寒気が走り腕の毛が逆立った。 「どうなるのか行くとこまで行ってみようって気分です」  母親の顔は急に浮腫《むく》んで見え、口もとは私に対する侮蔑《ぶべつ》で歪《ゆが》められている。 「息子が仕出かしたあやまちですから、家裁《かさい》で裁定された慰謝料はあたくしが全額支払います。それで勘弁してやってくれませんか」 「慰謝料は自分で払います」 「ぼくも行くとこまでとことん行こうと思ってる」男は唇をぎゅっと閉じてほほの内側を奥歯で噛み、右のてのひらでほほを押さえつけた。 「一度、男になってみたら」妻は拍手しながら大笑いした。  私が立ちあがると、男も釣られて腰を浮かせた。妻の笑いが激しくなった。私は男に向き直って言葉を一語一語切り落とした。 「電話、ファックス、手紙、今後いっさいやめてください」 「え、どういうこと?」  男の視線は動物園の檻《おり》の向こうからこちらを見ている動物を思わせる。 「どういうことって、もう逢わないってことだけど」 「さっき、行くとこまで行くって……」男は酸素吸入器でもあてているように息を深く吸った。  私は自分のバッグを捜した。どこに置いたのか思い出せない。すかさず母親がソファーの横に置いてあったバッグを差し出し、「ごめんなさい、ありがとうございます、あなたほんとうにやさしくていいひとです、どうもありがとう、さようなら」と日本語をおぼえたての外国人のようにいった。私ははじめてまともにその顔を見た。ひとは一瞬だけミイラになる。 「でも、あの、仕事、高樹さんでってことで決まってるのもあるし、もし逢わないとしてもきちんと話し合って、」  私と男のやりとりを、背筋を真っ直ぐにして、両手を膝に置いて聞いていた妻が立ちあがった。 「ちょっと待って、高樹さん」  台所から大皿に盛られたもやしの炒め物を持ってきて、すがるような目を私に向けた。「帰るんなら、これ食べて、エビアンで育てたからとってもおいしいわよ」  いまや、妻は笑ってもいないし、怒ってもいなかった。妻の視線が私に入りこみ、妻の胸が私の呼吸のリズムに合わせて持ちあがるのを感じ、私はわけのわからない幸福感に囚《とら》われた。隠花植物《いんかしよくぶつ》のような無気力な幸せ。いま私はこの女の目のなかにいる。男は妻の肩ごしに私を見ている。上唇にそって汗がにじんでいたが、それ以外は格別《かくべつ》これといった表情は男の顔には浮かんでいない。その顔は電車のなかでひまつぶしに中吊《なかづ》り広告を読んでいるひとと変わりはない。一生分の決心を使い果たしてしまった男。 「食べるよ」  男は妻の手から皿とはしを受けとって食べはじめた。もやしを食べる男がへその緒にぶらさがった柔《やわ》らかな胎児《たいじ》か、それ以下にまで縮んでゆく気がして、堕胎《だたい》をしたときの汚辱《おじよく》が蘇《よみがえ》った。客間の戸の陰に立って様子をうかがっていた母親は安堵《あんど》の笑みを浮かべている。私はそれらの視線をふり切って外に出た。扉がパタンと閉まったとき虚脱感《きよだつかん》と寒気に襲われた。なにかが起きてしまい、同時になにも起こらなかったのだと気づいた。木戸がきしむ音を聞き、閂《かんぬき》と金具がこすれる音を聞いたが、私を追いかけてくる足音は聞こえなかった。門のところでうしろをふりかえると、そこには見知らぬ家があるだけだった。  八月の夜は静かにゆるぎなくたちこめている。澄まし込んだ家並、死相《しそう》を宿した木立ち、ゆっくりと家路《いえじ》を転がされてゆく男たち、オートバイのうしろにまたがった女、乗客を満載《まんさい》した青いバスなどとすれちがったが、からだがふれ合う距離に近づいてくるものはなにもなかった。私自身の眼差しにむすびつけられた眼差し、男の目、阿川の目、ゆきとの目を思い出そうとしたが記憶の芯《しん》はぐらついていて、浮かんだのは笑《え》みをふくんだ妻と目と唇だけだった。私は線路に面したひと目につかない電話ボックスに入った。受話器を握ると、突如《とつじよ》として腕に力がみなぎってくる。私はゆきとの電話番号を押した。 「水原でございます」 「高樹ですけれど、ゆきとさんいらっしゃいます?」 「ゆきとはもう眠っております。それにご縁がなかったんですからもうお電話なさらないでくださいな。しつこいときらわれますよ」  ぼんやりしたひと影が電信柱の陰からこちらをうかがっている。空くのを待っているのだろうか。ひと影を眺めながら阿川に電話する。だれも出ない。ひと影が増える。自宅に電話する、だれも出ない。いつのまにか電話ボックスは影にとりかこまれている。心臓がおののいて脈打ち、両足が麻痺《まひ》し、全身汗で濡れている。殴られたかのようにからだじゅう痛い。私はガラス壁をたたいて影たちに合図する、この電話ボックスのなかで静かに狂うこともできるのだと。そして受話器は腕の一部となった。私はでたらめにボタンを押す、もしもし、女の声が聞こえる、もしもし、すこし鋭過ぎるいやな声、もしもしもしもし、口をぴったり送話口に押し当てていたが、息ひとつ洩らさなかった。電話が切れる音。またでたらめに押す、お客さまがおかけになった電話番号は現在使われておりません、番号をおたしかめになってもう一度おかけなおしください、テープの声は耳の痛みのように頭に響く。もう一度阿川の番号を押す。呼出し音、私は電話にしがみつく。心臓からなにかが引き千切れ、こころがふるえおののき、大声で叫びたかった。私はてのひらの音にただ耳を澄ましている。電話は切れ、小銭は落ちたが、受話器は手から離れない。だれもいない、だれがいるのか、私だ。私しかいない。もしもし、口を衝《つ》いて出た、もしもし、もしもし、もしもし?  初出誌 フルハウス 文學界 平成七年五月号      もやし 群像 平成七年十二月号  単行本 平成八年六月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十一年五月十日刊